2015/12/24

辺境のメリークリスマス

クリスマスである。

街はいつもの通りに大盛り上がりである。
殺風景な自分の店の中を眺め、これではいかんのではないかと思い、軽く飾りつけなどをしてみる。
インド、ダラムサラの亡命チベット人の学校TCVの子供たちが描いた絵をつなげたルンタのようなものがある。なぜか僕の手元にある。それを天井に飾ってみる。
カラフルで一見楽しそうに見えるが、一つ一つをよく見てみると楽しい絵ばかりではない。そんなことわかりきったことではあるのだが。おそらくヒマラヤを越えているだろう列をなす人々、おそらくお坊さんが捕らえられている様子、誰の顔なのか真っ黒に塗りつぶされた女の人の顔。
ドアを開けて表へ出るとマライアキャリーのクリスマスソング。サンタの帽子をかぶっている売り子の女の子。すべてが現実。なにより僕のごくごく身近な人もこの絵を描いた子供達と少なからず同じ光景を見ているはずだ。
クリスマス的な飾り付けという予定とだいぶずれている気もするが、しょうがない、そういうことだ。なにもかにもすべてひっくるめて、丸めてごくんと飲み込んで、今日も酔っ払いたいと思うのだ。


さてさて、店を始めてもう4ヶ月が過ぎた。4ヶ月も経つけど、なんだかいまだに心がざわついている。一つの場所を構えて仕事をするというのが久しぶりだからかなんなのか、ざわざわする。

例えばある深夜2時。
僕はカウンターに座り、余り物の簡単なつまみを用意し、自分のためにワインを開ける。
店の中から外の様子をうかがうことはできない。
この瞬間世界とのつながりはラジオだけである。深夜のAMラジオ。その頼みの綱であるラジオでは鼻づまり声の女が「どんぐりと山猫」を朗読している。
そんな時ふと思うのだ。
この瞬間も世界はドドドと音を立ててを変化し続けている。こんなところでぼやぼやワインなど飲んでいていいのだろうか。深夜2時の自問自答。
外の様子は相変わらずわからない。夜遅くに雨になるってラジオで言ってたけどどうなんだろうか。
いまこの瞬間、僕がワインを飲みながら「どんぐりと山猫」を聴いているこの瞬間に、世界のどこかでは叱られている子供もいれば、飛行機を操縦している人もいる。歯医者で歯を抜かれている人もいれば、海辺で昼寝してる人だっている。あくびをしている熊もいれば、爆撃の下で逃げ回っている人もいるはずだ。
ざわざわざわざわ。
若い頃、始めて大きなリュックを背負って旅に出た。どこにでもいけるという高揚感で僕はいっぱいだった。街から街へ。気ままに電車を乗り継ぎ深夜バスに乗り込む。はじめて目の前に広がる広さを満喫していた。と同時に僕は気付いてしまった。10時間バスに揺られながら窓の外を通りすぎる、小さな村々、10時間分の通り過ぎて行く人々、僕はこの先彼らに会うことはないのだろうということを。電車の中から見た、早朝線路にケツをむけて一列に並んで用を足す彼らと話すことはないのだろうということを。世界は広すぎる。あまりに広すぎてとてもじゃないが僕一人の手に負えるものではない。

毎日下北沢の2階10坪の店で料理を作りながら感じるざわざわはその時の感じに近い。膨張し続けるアタマ、限りあるカラダ。


そんなこんなで、ざわざわしながら下北沢で飲み屋をやってる僕の新しいメニュー「辺境のチキングリル」。誰かにとっての辺境も、別の誰かにとってはまぎれもない中心であるはず。僕らはここにもいるしあそこにもいるのだ。文学や音楽という表現の形態が、受け手である個人を無限に拡大させる力を持っているのなら、料理にだって、飲み屋にだってできないことはないと僕は思っている。

ちなみにこのチキンにもクリスマス感は微塵もないです。