2013/07/01

半分この前の続き。
チベット語は書き言葉と話言葉にけっこうな違いがあって、書き言葉はだいぶ堅苦しいものらしく、書くのは苦手という人は多いようだ。
日本語の場合、仮名文字ができたり、明治では言文一致の動きだったりで、昔から多くの人が読み書きができたし、それによってまた新しい表現の形態も生まれたのだろう。言葉というものは生き物のようにそうやってダイナミックに変化し続けた結果今この形になってるし、今だってなお変化し続けている。そういうもんだと僕は理解している。

チベット語は未だにそんなんだから廃れていくんだよ、一瞬そう思った。

だけど、だけど自分の国で思うように自分の言葉を話すことができない、言葉の違う外国で暮らさざるを得ない、彼らは今、そういうところにいる。
そんな彼らの言葉がどうやって生きて変化し続けられるだろうか。

1000年単位で生き続けた言葉が消えていくとしたら。
実際なくなってしまった言語はたくさんあるだろう。
そのとてつもない取り返しのつかなさに僕は呆然とするのだ。