2014/02/22

「アウトカントリー」というやつ

妻は、一月に子供と二人で夫の待つフランスへと旅立ったお姉さんとたまに連絡を取っている。
亡命してきた難民としてフランス政府に受け入れられているのでなかなか手厚いサポートがあるようだ。家が用意され、毎月の補助金があり、毎日食料の配布もある。野菜、果物、缶詰類、バケットなどを両手いっぱい抱えている写真を見ると、はっきりいってうらやましい。いつまでかはっきりとは分からなかったけど、しばらくは補助をうけられるようだ。
夫はすでにチャイニーズレストランで働いているし、お姉さんももうすぐ働き始めることが出来るらしい。何年か二人でガッツリ働く。学校に行く年齢になったら子供はチベットの親戚のところへ預け、向こうの学校に行かせる。十分稼いでチベットに戻り家族みんなで暮らそう、それが今の彼らのプランだ。
フランス語も英語もろくに話せない彼らの仕事がチャイニーズレストランになるのは妥当なところなんだろう。そしてやっぱりフランスに根を生やすという考えはないようだ。自分で選んで亡命してきたのだけれど、やっぱりチベットに帰りたい。亡命したときは彼らが何を求めて出てきたかは僕には分からない。いつ亡命してきたかによって向こうの様子がだいぶ違うので状況は人それぞれだ。
ただ言えるのはインドにいることに未来を感じることは出来ない、そういうことだ。
やはりお金の問題である。信仰だけではお金は降ってこない。神様はおなかまでは満たしてくれない。

ダラムサラでiPhone持って、Mac持ってという人はだいたい海外の親戚などから送金のある人だ。そんな人たちは仕事もしないでぶらぶらしてられる。朝から晩まで働いてる人たちは、そういう人がいない人。iPhoneなんて夢のまた夢。インドのサラリーなんて部屋代払って電気代払ってもうおしまい。妻がよくそんなことを言う。だからみんな外国に行きたがる。
みなスマートフォンで毎日通貨レートをチェックし、韓国ウォンが上がった下がった、シンガポールはどうだ、マレーシアはどうだと一喜一憂してる。どこの国に行って働くか、どこの国で働くのが割がいいか、そんなことを考えている。通貨レートだけじゃなくてその国の物価とかいろいろ他の要素もたくさんあるだろうにとも思うのだが、みな夢を見ている。

2000年頃まではお坊さんや尼さんは比較的容易に外国へ行けたらしい。チベットから亡命してくる人たちも多かったその頃、ヨーロッパを始め諸外国の支援が厚かったということだ。それでたくさんの人が外国へ行った。外国に行きたいがためにお寺に入った人もたくさんいたという。その後亡命政府の意向もあったのかインドから出国する審査というのが厳しくなったらしい。
政府、NGO、支援団体、個人のスポンサーなどの正式な招待のもとに外国にいくのが1つの方法。これは抽選や審査があったり、たくさんの枠があるわけではないので競争率はかなり高い。2つめが先に行った配偶者や親戚に呼び寄せてもらう方法。それもだめなら残っているのはイリーガルな方法。ブローカーのような人がいる。どうやってその国まで行くのかと思うが、いろんな方法があるんだろう。山を越えたり、海を渡ったり、偽造パスポートを使ったりというところか。目的の国の国境まで来てしまえば、パスポートなんかは全部捨てて、亡命してきました!と両手を上げる。ブローカーにはかなりの大金を払う必要がある。インド、チベット、海外の友人親戚からかき集めてようやくお金を作る。向こうについて働き始めればお金は返すことが出来る。ただ成功するかどうかは運次第。実際以前レストランで一緒に働いていた友人はヨーロッパを目指したが、途中イラクかどこかで捕まり、強制送還となった。道中自分が今どこにいるかよくわかってなかったという彼は、数ヶ月後にすっかりやつれ、髪もひげももじゃもじゃになって帰ってきたという。
彼はその後もオーストラリアの抽選に応募し続けているが、いっこうに受からない。彼の隣に住んでいる人が受かった。隣人はもうすぐオーストラリア、友人はまだダラムサラ。
もう一人別の友人も、いろんなところにいろんな方法で外国に行くためにトライしているが、いっこうに書類が通らない。この間会ったとき、もう疲れたとこぼしていた。インドに来て10年、先の見えない不安。こんなことならチベットに戻ろうかな、チベットに戻ってレストランを開こう。彼はそう言う。故郷に戻って家族の近くで暮らし、ツァンパを食べてた方がよっぽど幸せなんじゃないか。最近お母さんからしょっちゅう電話が来るんだ、ご飯ちゃんと食べてるか、ブランケットは暖かいのがあるかって。いつもおんなじことを言うお母さん。もう年取ったお母さんに心配かけさせてるのもよくないよな。小さな口をさらにつぼめて、彼はそうこぼす。

実際チベットに戻る人も多い。政治的なことに口を閉じてさえいれば、仏教のことは心の中にしまってさえいればいいんだ、そうすれば今よりは楽な暮らしが出来る、彼らはそう言う。それじゃあ経済的な幸せが人々の幸せだと信じて疑わない中国政府の思うつぼなんじゃないのか、と僕は思う。町中に武装した警官が立って監視されていたって暮らしがよければ我慢できる?ダライラマ法王の写真の代わりに毛沢東の写真を飾れと言われて我慢できる?と僕は思う。だけれど僕に口を挟む資格は全くない。いっこうに状況の変わらないチベット問題にいらだつ彼らの気持ちを、僕は完璧には共有することは残念ながら出来ない。

それぞれの逡巡と決断。

ところで僕たちは日本で暮らすことにした。
外国人にとって、きっととっても暮らしにくいであろう日本で暮らすことにした。この先どうなるか、自分と彼女の分ニ倍よくわからないことになっている。
日本政府はチベットという国の存在を認めていないので、彼女は無国籍ということになる。
無国籍と宿無し職無し。ないないづくしの僕たちである。

はてさてこの先どうなることやら。乞うご期待。いや危なっかしくてしょうがないな、実際。




2014/02/12

アジャ(お姉さん)

なんだか文章を書いててわかりづらくなりそうなので、はっきり言ってしまうが、今一緒に旅行してるチベット娘は妻である。いつの間にか結婚してしまった。あまりあとさきを考えないのが僕の数少ないいいところなのだ。
まあ、そんなことはこっちに置いといて、と。

ここカトマンズ、スワヤナンブーで彼女は新しいお姉さんを見つけたようだ。
彼女の名前はデヤン。いくつか妻より年上の彼女は、隣の部屋に住んでいる。朝っぱらから例の「ディディディディディ…」を唱えてたのは彼女である。聞くとノルウェー人のボーイフレンドがいるらしく、毎日スカイプでノルウェー語のマンツーマンレッスンを受けているらしい。なるほどそういうわけで「ディディディディ…」ということか。
挨拶ぐらいはお互いにしていたけどそれぐらいという感じだったが、ある晩「彼女の部屋に遊びに行くけど一緒にいく?」と妻が僕に聞く。女同士の語らいの時間を邪魔するほど僕は野暮ではない。一人でのんびり酒を飲みながら、部屋で映画を見ることにする。
数時間後興奮した様子で部屋に帰ってきた。「新しいお姉さんを見つけたよ。姉妹の契りを交わしてきた!」人懐っこいことは人懐っこいのだが、じつはかなり人見知りで、なかなか人と腹を割って話すことが少ない彼女にしてはずいぶん珍しいことだ。明日のお昼は3人で一緒にご飯を食べる約束をしてきたという。「ほんとに考えてることが一緒なんだ。初めてだよこんなこと」実のお姉さんにも話さないような個人的な胸の内をぶちまけることが出来たようだ。いつまでも興奮したまんまの彼女は、その夜なかなか眠られなかったという。僕はさっさと眠ってしまったわけだが。

翌日デヤンの部屋に行く。彼女はもうすぐ休暇でネパールに来るボーイフレンドのために大きな部屋を借りている。キッチンもある。正面にカタを掛けた法王の写真。大きなテレビ。大きなスピーカー。テレビのしたの布をめくってみるとノルウェー語のノートがある。壁には神様を描いたいくつかのタンカ(仏教画)。毎日お供えする神様への水入れが7つ。その脇にチベットのお香。そしてその脇に並ぶ彼女の化粧道具。普通のチベットの女のコの部屋という感じだろうか。
2人が子供のときに聞いていたという、ちょっと昔の中国のラブソングをかけながら、デヤンはビールを3つのグラスに注ぐ。「彼氏と喧嘩したときなんかは決まってこの曲聞いて泣くんだよ」「そうそうあたしも一緒」「それで一人でバーに行ってビール飲んで」「そうそう!」なんだか黙っていると僕のいる場所がなくなりそうな気配なので、なんとなくネパールに来た経緯を訊いてみた。

デヤンは八歳ぐらいの頃、一人で生まれ故郷のラサから遠く離れたネパール国境に近い町に働きに出た。金銭的な事情か母親の知人のところに預けられたということだ。そしてその知人という人にずいぶんひどい扱いを受けていたという。満足な寝床も食事も与えてもらえず、殴られ、こき使われた。母親がどこにいるかも教えてもらえなかったと言う。僕の妻も小さい頃に親を亡くし、一人で街に出て働いていた。二人は僕の手の届かないところで深く共感し合っている。

「こんなことなら死んだ方がましだって思った。グラスを割って手首を切ったこともあった。死ねなかったけどね。」デヤンは手首の大きな傷を恥ずかしそうに僕に見せてくれた。
「私は毎晩神様にお祈りしていた。生まれ変わるとしたらチベット人だけには絶対なりたくないって。私が信じているのは法王様だけ。チベット人なんか大嫌い。近所に国境を行き来するためのネパール人ドライバーのための売春宿があったの。そこの女の子の一人と友達だったんだ。どこに行くとも告げられず売られてきて、男を取らされて、口答えしたら殴られて、お金だってみんなオーナーにもってかれて。どこにも逃げ場なんかない。オーナーだってもちろんチベット人だよ。チベット人は口を開けば「ニンジェ(慈悲)、ニンジェ」って言ってるけどさ、ニンジェなんてどこにあるっていうの?笑っちゃうよ。貧乏人から搾り取って、弱い女の子から搾り取って、信心深い顔してお寺やお坊さんにはポーンと寄進する。それがきれいなお金って言えると思う?いいことしてるって言えるの?ラサでリンコルしてるおじいさんおばあさんたち、あの人たちなんか毎朝オンマニペメフン、オンマニペメフン言いながらまっすぐ肉屋に行って肉を買う。集まって誰かの噂話して、よけいなお節介ばかりして、その合間のオンマニペメフンだよ。あのひとたちにとって暇つぶしだよただの。」
結局デヤンは17、8歳頃働いてた家を逃げ出し、ネパール、インドへと亡命したと言う。1年ほどインドで学校に通ったが、チベットに戻り母親を捜しに行った。しかし見つけることができずに、再びネパールへ。未だにお母さんが生きてるかどうかもわからない。
「カトマンズに戻ってきたときはホントに一文無しだったの。それで仕事を探そうとチベット人のレストラン何件も回ったけど、みんな私の汚いなりをみてあっち行けって。で、最後に中国人のレストランのオーナーにすぐうちに来いって言われて、ご飯食べさせてもらって服だって用意してくれて、そこで働かせてもらうことになったの。中国政府はとんでもなくわるいやつらだけど、普通の人はいい人いっぱいいるよ。チベット人よりもね。」
今は中国人ツーリストの通訳やトレッキングのガイドなんかの仕事もしているらしい。

「ホントに死のうと思ったことも何度もあるけど、私たちはギブアップしなかった。だから今はフリーダム。こうしてビールを飲んでられる。」
2人は再びグラスを重ね合わせる。
タバコの箱を開けると、ちょうど最後の三本。3はチベット人には吉兆の印。

僕たち三人は顔を見合わせ、お互いにそれぞれのタバコに火をつける。


2014/02/10

朝のリレー

スワヤナンブーの朝は早い。
まだ夜も開けていない4時きっかりに始まる拡声器によるオッサンの演説。近くで何やら集まりが行われているようなのだが、どこなのか、何の集まりなのかはさっぱりわからない。何を話しているかは当然わからない。毎朝のことながら理不尽に中断される穏やかな僕の眠り。そしてほどなく始まるオッサンの高笑い。それに続く大勢の高笑い。朝から知らないオッサンの高笑いを拡声器で聞かされるのはあまりいい気分ではない。いやそれどころかとても癪に障る。繰り返される高笑い。
これはもしや、どこかで耳にしたことなある「笑いヨガ」というやつではなかろうか。不意にそう思う。実際に目にしたこともないし、ヨガのことだってよく知らないのだが、朝っぱらから大勢集まって高笑いするなんてトンチキな話ほかに聞いたことはない。ただどうしてもヨガにあるべき(勝手なイメージだが)清らかさというかすがすがしさみたいなのが全く感じられない。お前はまだベッドの中だろう、ゆうべの酒が残ってアタマががんがんしてるんだろう、そんなヤツが何を言うと言われればそれまでだが、どうもしっくり来ない。これが「笑いヨガ」なのか。ベッドの中でオッサンの高笑いを聞きながらあれこれ想像する。両足を首にかけたり、片足立ちでまっすぐ腕を上げたりしながら高笑いしてるのだろうか。昔見たヒクソン・グレイシーみたいにおなかをビックリするほど引っ込ませたりふくらませたりしながら高笑うのだろうか。暗闇に集まって高笑うのはどんな気持ちなんだろうか。家族に内緒で来てる人はいないだろうか。帰ったら朝ご飯はなに食べるんだろう。間違いなくおいしいだろうよ。
だんだんオッサンの高笑いも耳に馴染み、心地よく聞こえはじめる。再び僕は穏やかな眠りに向かう。

「オム・ア・ラ・バン・ザ・ナ・ディディディディディディ…」
僕は再びこっちに戻される。左隣の部屋の娘が廊下を行ったり来たりしながら大きな声で真言を唱えている。朝の身支度に忙しそうだ。リンコルに行くのだろうか。そろそろ薄く朝日がさしはじめている。ちなみにこの真言は言葉がうまく話せるようにという智慧の神様の真言らしい。吃音の人なんかにディディディ…のところがいいトレーニングということか。まだベッドの中、半分しか覚醒してないアタマで僕も真似をしてみる。「ディディディディ…」
もう一人おじさんも「オン・マニ・ペ・メ・フン」を低く唱えながら廊下を行く。低くぶつぶつつぶやかれるのもなかなか眠りを妨害するもんだ。
1階の中庭のテーブルに人が集まりだしてきた。ようやく雀の鳴き声も聞こえはじめた。宿の前で石やら数珠やらチベットのものを扱う露店のオッちゃんの声がとりわけ響き渡る。薄汚れた白い小さな犬をいつも従えているこのオッちゃんは、僕の思う「ザ・チベット人」である。顔馴染みのおばさんをつかまえてはおしゃべりに興じ、冗談を言ってからかい、腹の底から笑い飛ばす。どこか芝居がかったオッちゃんの話しっぷりからチベットのにおいがムンムンする。大地の土煙が見えてくる。
表通りをリンコルする人たちの話し声が少しづつ多くなる。車のエンジン音も聞こえ、クラクションも鳴り始める。
すっかり朝である。1階のキッチンからカランカランと食器の音が聞こえる。そしてステレオのスイッチが入り、チベット人歌手の流行歌が流れる。大音量で。さっそく右隣の部屋の兄ちゃんたちが音楽に合わせて歌い始める。その向こうの部屋からも歌声がきこえる。ご機嫌の朝の合唱部。
ようやく午前7時。僕はベッドからもそもそと這い出る。バター茶でも飲みに下に降りることにしようか。まったく、朝の弱いチベット人というのはいないもんか。彼女の方を振り返ってみると、まだまだ遠い夢の国にいるようではあるが。


今日も朝から猿たちのキーキーという鳴き声が聞こえる。どこかからかっぱらったチベタンブレッドを奪い合っている。それにしてもここの野良犬たちはどうしてこうも猿に寛大であるのだろうか。



2014/02/02

死と向き合う

DR.MOBILE」という看板を掲げた店がある。携帯電話やパソコンの修理屋だろうと思って中に入る。入ってみると、思いがけずそこはとんかつ屋で、またそのとんかつが思いがけずにうまいのなんのって。
夢の話だ。じつにくだらない夢だ。この夢に自分の心の奥底のひだのようなものを見いだせる気配がまるでない。考えられるのはうまいとんかつを渇望してるのだろうということくらいか。それはたしかにそのとおりであるから、またくだらない。

翻ってチベット人の彼女のみる夢の話には、いつも死者の影がある。眠るということは一時的に向こうの世界に身をゆだねるということだ。しばしば彼女は夢の中で大好きだったお母さんやお兄さんの姿を感じる。夢の中で死者に会う。しかしそれは喜ばしい再会ではない。危険な兆候だ。彼らの死が正しく執り行われていないということになる。正しく次の生へたどり着いてないということになる。そして彼女を向こうへ連れて行こうとしている。いやもしかしたら、彼女が自分でも気づかないうちに彼らを引き止めているのかもしれない。
「もし眠っているときわたしがどこかに行きそうになったら引っぱりもどしてほしい」
常々彼女はそんなことを僕に言う。けっして比喩的な話ではないようだ。実際子供の頃、突然目を覚まし、周りの大人が何人もかかって押さえつけてもどうにもならないような信じられない力で外に飛び出しそうになったことがあると言う。その夜彼女は彼女ではなかった。死者が彼女の体にやってきたということだ。そんなときはお坊さんを何人も呼んでお祈りをしてもらう。心置きなく死者に向こうにいってもらえるように。こういう話はチベットにはたくさんあるよと彼女は言う。

死者を正しく死に導く。もしくは死にゆく本人も正しく死へ向かう。輪廻転生という次の生への疑いのない肉体的な感覚というのか。いくらアタマで理解しているつもりでも僕には理解しきれないのだろう。正しく生きてさえいれば死は恐れるものではない。ただの途中経過である。ときおり見せる彼女の無鉄砲にも思える言動も、「死んだら死ぬだけ」的な言い分も、その考えにしたがえば納得できる。いい意味でも悪い意味でも一つの生の価値が僕が考えているものとは違う。命の重さ軽さなどという話ではない。生も死も個人に属する問題ではなく、もっと大きなスケールのもとで語られるべき事柄なのである。チベット本土で自ら炎に身を捧げ、死を持って抗議を行う人たち。彼らの想いもそう思うとより具体的に感じられるような気がする。

チベットで一度見たという鳥葬の話を聞いた。遠巻きに一度見ただけというが、その描写は生々しかった。
小高い丘の上の鳥葬場に、鳥葬師というのか専門の職人がいる。この職業の人のことをトンデンというらしい。なにか特別な服装でもしているかとも思ったがまったく普通の格好であると言う。ちなみに死体を運ぶ彼らの車は交通ルールの外にあるらしい。警察でも止めることは出来ない。
空中ではハゲタカが弧を描き、すでに待機している。
トンデンは死体を大きなナイフで切り分ける。魂(この言葉が適切かどうかはよくわからないが)がすでに離れた死体は、ただの肉の塊である。適当な大きさに切り分けたところで、その傍らに彼は座りツァンパを食べ、チャンを飲む。手は血まみれじゃないのと僕は聞いたが、彼女はそこまでは見えなかったと言う。これは死者の最後の食事として家族が用意するそうだ。肉料理だってある。
食事が終わるとトンデンはツァンパを宙にまく。ハゲタカの出番である。はじめにボスの名前を呼ぶらしい。ボスが一羽舞い降り肉塊をついばむ。ボスが食べ終わると、残りのハゲタカたちが降りてくる。最後にきれいに残された骨をトンデンは細かく砕き、燃やす。そしてその灰を高く宙にまく。そのとき強い風が舞ったような気がすると彼女は言った。


いろんな死のかたちがあるし、いろんな死への想いがある。
実は数日前に祖父が亡くなった。実家からメールで知らされた。家族もみなある程度の覚悟も出来ていたろうし、まあ全うしたといえるのであろう。それでも、こんなところにいて駆けつけることの出来ないジジイ不幸な孫を許してくださいと思う。もう一回会える気がしてたのになと思う。最後まで家長として威厳を保っていた祖父が、正しく勇敢に次のステージへと向かって行ったことを今は祈るばかりである。
そんなことなので親族が集まっている実家とスカイプで連絡を取ってみた。さんざん泣いたり笑ったりしたあとなのだろう、ただの酔っぱらいばかりになっているパソコンの向こうの光景に、彼女はやや、いやかなり面食らった様子であった。


いろんな死のかたちがあるし、いろんな死への想いがある。


2014/01/29

チベット語愛餓を

一年ほどダラムサラでチベット人に囲まれて仕事をしていたわけだけど、残念なことにたいしてチベット語が上達していない。ましてやチベット文字なんかまったくわからない。時間もあったろうに、テキストだっていろいろ用意してたのに、酒ばかり飲んでるからだ。「ドッキョンレ(自業自得)」と自分に言っておこう。

ということで、いまネパールで集中的にチベット語講座が開かれている。ついでに日本語講座も。お互いに先生になってということである。
「ABC」はずいぶん前に覚えているわけだから、フランス語やスペイン語を勉強し始めるのとは訳が違う。新しい文字を覚えるというのはとても不思議な体験だ。街で看板なんかを見てもまったく目に入らなかったもの、情報として認識さえされなかったにょろにょろしたものを「これは文字なんだ」と自分に言い聞かせインプットしていく。すこしづつにょろにょろしたものと音との対応が見えてくる。壁のシミに謎を解く鍵を見いだす名探偵のようなアタマの中の一瞬の広がりがあるような気がするけど、あまりぱっとした喩えではないな。
ཀ་ཁ་ག་ང་ ཅ་ཆ་ཇ་ཉ་
まず微妙なカーブの意味が分からない。微妙な角度の意味が分からない。ここでペンをこっち側に動かす必然性のようなものが見当たらない。意味などない、必然性などない、ただたくさん書いて覚えるしかないではないかというもっともな意見もわかるのだが、もうおっさんになってしまった僕の脳みそはそんなにピュアにはできてないようだ。何かしらの関連性みたいなものがないと頭に入ってこない。とかなんとか言いながら、たった今、生まれて初めてキーボードでチベット語を入力してみて部屋で大興奮している。パソコンはどうも苦手な彼女も一緒に大騒ぎ。ただ「あいうえお」のようなものを書いただけなのだが、ピュアすぎるほどピュアではないか、オレ。
閑話休題。
彼女がチベット語書くならこっちの方がいいよと万年筆を買ってきた。今までは普通のボールペンを使っていた。これが全然違う。なんていうか気分が違う。いやというより、そこでそっちに弧を描くのが実に合理的な動きであることがわかる。文字の書き方のある程度の法則みたいなものが見えてくる。何を使って書くかということはこれほど大事なことだったとは思ってもみなかった。考えてみれば文字が出来たときに極細滑らかボールペンなどあるわけがない。竹を削って、先をある程度細くして、ある程度の太さを残して書いていたわけだ。うーんなるほど。そう思うと、ひらがなの書き方を教えるのにしても、毛筆で書かれた文字であるということ、毛筆ならではの動きの結果の文字であるということを考えると、説明の仕方も変わってくる。うーんなるほどなるほど。まだまだ気づくことはたくさんあるものだ。

とはいえまだ最初の一歩も踏み出したともいえない地点である。一つの音を出すのに文字の組み合わせと補助的な何かが必要らしい。先は果てしなく長い。較べて日本語の50音というのは書き文字と音がシンプルに組み合わさっている。チベット語には僕にはまだうまく出せない音もある。我らがご先祖様はよい言葉をつくったものだとも思うが、50音に音をまとめてしまったばっかりに、日本人は(人のことは知らないから僕はというべきか)致命的な外国語、特に英語の発音の問題に直面してるともいえるかもしれない。

ちなみに僕たちはお互いにとてもへんな言葉でお互いに話している。はじめはきちんと英語で話していたが(少なくても僕はそう思っているけど)、少しづつ僕のチベット語の語彙が増え、彼女も少し日本語を覚えはじめ、お互いに不完全な言葉を不完全なままぐちゃぐちゃ混ぜにして話しているもんだから、他の人にはわからない言語に仕上がりつつある。おかげでよその国の人に突然話しかけられると急には対応できない。明らかに僕の英語力は退化してしまっている。「もとからなに言ってるかよくわからなかったよ」とあいつは言うかもしれないが。

だからこうやって日本語で文章を書く時間は、僕にとって精神的なオアシスと呼べるのだが、怖い顔をした先生がこっちを見てるので、自主学習の時間へと戻ろうかなそろそろ。

བཀྲ་ཤིས་བདེ་ལེགས་



2014/01/27

旅は道連れ

気分転換もかねてポカラに行くことにした。1週間くらいのつもり。
カトマンズの宿は一ヶ月ということで借りてるので、とりあえず必要そうなものをリュックに詰め込む。準備はできた?と連れの方を振り返ってみると手ぶら。下着の替えをポケットにつっこんだぐらいなもんだ。毎度のことながら気軽に身軽に移動するこの人たちに驚かされる。

1人で旅をすることに慣れてしまったので、連れがいることは新鮮だ。ましてや現地の言葉の堪能な人と一緒というのは初めての経験。やはり言葉は大事。なにがいいって買い物が安く済む。とにかく値切る。その熱意に僕はやや引き気味になる。若い頃は僕だって口から泡を吹きながら、リキシャのオッちゃんとケンカ腰に値段交渉したもんだが、残念ながら今その熱意は僕にはない。貧乏旅行なことは今も昔もたいした変わらないのだけれどな。
観光客相手の店でTシャツなんか買うとき、僕の出る幕はまるでない。邪魔しないで、余計な口を挟まないでと言うことになる。「私もおんなじネパール人だよ、それはちょっと高すぎるんじゃない。」ほんとにお前ネパール人かよというおじさんの疑いの目など気にしない。細かい糸のほつれだって見つけるし、怒ってみたり、懇願してみたり。1ルピーだってゆずらないこの攻防は、彼女にとってスポーツのようなものかもしれない。そういえばダラムサラにいた頃、僕が部屋でトゥクパなど作って食べる用のお椀が欲しいということで一緒に買いに出かけた。しかしどの店の値段にも納得してくれずに、「メーラー(秋のお祭り)には安い店がたくさんでるからそのときに買いな」と2、3ヶ月待たされた。今日にでも使いたいって言うのに。ほんの10ルピー20ルピーの違いだっていうのに。金はオレが出すって言うのに。
まあ、倹約家がいっしょだと心強いのは確かだ。ただ問題は、酒に関してだけは2人とも金に糸目をつけないということか。

間違いなくポカラのバス停に着いたら一気にホテルの客引きが集まってくるから、いきなり言われるままに決めないで、ちょっと一服しながらゆっくり考えようぜという僕の意見に、わかったとうなずく彼女。僕にも僕の旅の流儀がある。第一波の客引きをやりすごし、残った人らとのんびり交渉したほうが相手のペースに飲まれない。ふふっオレにもいろいろ経験があるんだよなんてことを思い一人悦に入る。

ポカラに到着する。思ったとおりたくさんの客引き。たまに日本語だって聞こえる。その人らをかき分け後部のトランクにリュックを取りに行き、戻ってみたら、彼女はもうタクシーに乗り込んでいた。
「早く乗りな!」ってあんたオレの話全然聞いてないな。「いいからあんたは口出さないで」って少しひどい言い方ではないですか。
結局彼女の即決したホテルにまっしぐら。たしかに悪くないホテルだったというところがまた腹立たしい。ほらねと言わんばかりの彼女の勝ち誇った顔も腹立たしいったらありゃしない。

ポカラは快晴。
マチャプチャレをはじめとした迫力満点のヒマラヤの峰々。「ほら見てみな山だ!山だ!」いちいち立ち止まって興奮する僕に彼女は冷めた目で答える。
「チベットにはもっともっと大きな山がいっーぱいあるんだから、あれぐらいじゃ全然驚かないよ」
くそーこのチベット娘め。素直にオレを感動させておいておくれ。


2014/01/24

読書の効用

旅に出る時に、もっとも慎重になるのは本を選ぶこと。
どこにいってどんな気分になるか、いろんな可能性を考え、できるだけコンパクトに有益な本を持っていきたい、そう考える。なんて言っても、実際は思ったとおりの気分になんかならないんだけど。それでもいろんなシチュエーションをあらかじめ想像するのは出発前の大きな楽しみの一つだ。インドならインドの、八ヶ岳テント泊にはそれの、1泊の伊豆お忍び旅行にはそれ相応のセレクトがある。もっとも恥ずかしくて具体的なタイトルなんかいえないし、残念ながら伊豆のお忍び旅行の経験なぞない。
今回は移動もせずにダラムサラに一年ということで、まとめて段ボール一つ日本から送っていた。読みかけやら読もうと思って積んでいたのを無造作に突っ込んで。結局日々酔っぱらっていたせいで、読まずにそのまま送り返すのもたくさんあるんだけど、読んでみて、ダラムサラにいるからこその染み込み方があった本もいくつかある。その時の自分の状況に応じた見え方があるのも読書の一つの効用である。

「カラマーゾフの兄弟」がそんな本の一つだ。そこで繰り返されるいくつかのテーマ。そこに出てくる登場人物たち。19世紀半ばのロシアの物語を読みながら、僕はいつも、今周りにいるチベット人たちのことを考えていた。
例えばゾシマ長老の死の間際の民衆の神秘への期待。そしてその後のあからさまな失望。それを斜めにながめている無神論者。そんなシーン。

カトマンズに来てから、空気の悪さか環境の変化か、連れの彼女の具合がいまいちすぐれない。咳も出るし、なにより猛烈に頭が痛いと訴える。日本から持ってきたバファリンを渡すがよくならない。
そのとき彼女が突然思い出す。「あれがあったじゃん!」2種類の小さな丸薬のようなものを取り出す。一つは「マニリブ」といってダライラマ法王のパワーが込められていると言われている。もう一つはダラムサラのネチュン寺でもらった色は違うけどマニリブと同じようなもの。ネチュン寺はダライラマ法王にお告げを与えるシャーマン的役割を担う神様のお寺である。彼女はこの二つの丸薬を数粒づつ取り出し、ティッシュに無造作にくるんで火をつける。部屋に立ちこめる煙。その煙を大事そうに顔にあてる彼女。そして彼女は言うのである。「あっ治った!もう痛くない!」えっもう?バファリンなんて糞食らえってなもんだ。
彼女はこんな話も聞かせてくれた。彼女が子供の頃、カルマパ(チベットの最高位のお坊さんの1人)がラサ、ポタラ宮を訪れた。当然一目見ようとみんなお寺に集まる。近所に住んでいた彼女も周りの大人とともにお寺へ。ただそのとき彼女は猛烈な歯痛に見舞われていた。それでもどうしても一目みたい。やがてみんなの前にカルマパが現れる。そして彼女の前で足を止める。「どこか痛いの?」まだ少年だったカルマパは彼女の顔を覗き込む。歯痛の話を聞くとそっと彼女の頬にてをあてて、もうだいじょうぶだよと言った。「それからね、ホントにすぐ痛みが引いたんだ。あれから一回も歯が痛くなったことはない。小ちゃいのはあったかもしれないけどね」
また、彼女はお寺でお祈りするとき、たまにダライラマ法王に文句を言うらしい。「どうしてこんなにたくさんのチベットの人たちが苦しんでいると言うのに、どうしてあなたはパワーを使って助けてくれないの。その赤い僧衣の下に隠してることはみんな知ってるんだからね。いつも私は普通の人間ですなんて嘘言ってるけどみんな知ってるんだよ。」

そんな話を聞いて、僕の立ち位置はとても微妙なものになる。やっぱりまったく信じきることもできないし、カラマーゾフの次兄イワンのようなリアリスト、無神論者にもなりきれない。ただ、身近な人が目の前でそう言うたぐいの話をしているのを聞き、そのときの彼女の高揚した顔つきや息づかいを僕は知っている。それは僕の生身の体験だ。同じようにそうやって彼女の生身の体験を手渡されている、そんな気分になるのである。


今日も僕たちはスワヤンブナート寺院の周りを散歩する。ここはモンキーテンプルと言われるくらい猿がたくさんいる。
僕らの目の前に中国人の若い4人組のツーリストを発見する。彼女は僕の手を引っ張り中国人を追い越しにかかる。そして大きな声で、はっきりとしたわかりやすい英語で、僕に話しかける。
「猿がいっぱいいるねー。ねえ知ってる?中国人って猿の脳みそも食べるんだって。猿まで食べて、そのうえよその人の土地まで食べて、どんだけ大きなおなかしてるんだろうねー。」
ビックリした顔をしている中国人がちらっと見えた。
あーやっぱりカラマーゾフだ。

聖も俗も人一倍過剰なカラマーゾフ家。僕はチベット人に、いやもしかしたら彼女にカラマーゾフ的激流を感じずにはいられないのだ。