死と向き合う
夢の話だ。じつにくだらない夢だ。この夢に自分の心の奥底のひだのようなものを見いだせる気配がまるでない。考えられるのはうまいとんかつを渇望してるのだろうということくらいか。それはたしかにそのとおりであるから、またくだらない。
翻ってチベット人の彼女のみる夢の話には、いつも死者の影がある。眠るということは一時的に向こうの世界に身をゆだねるということだ。しばしば彼女は夢の中で大好きだったお母さんやお兄さんの姿を感じる。夢の中で死者に会う。しかしそれは喜ばしい再会ではない。危険な兆候だ。彼らの死が正しく執り行われていないということになる。正しく次の生へたどり着いてないということになる。そして彼女を向こうへ連れて行こうとしている。いやもしかしたら、彼女が自分でも気づかないうちに彼らを引き止めているのかもしれない。
「もし眠っているときわたしがどこかに行きそうになったら引っぱりもどしてほしい」
常々彼女はそんなことを僕に言う。けっして比喩的な話ではないようだ。実際子供の頃、突然目を覚まし、周りの大人が何人もかかって押さえつけてもどうにもならないような信じられない力で外に飛び出しそうになったことがあると言う。その夜彼女は彼女ではなかった。死者が彼女の体にやってきたということだ。そんなときはお坊さんを何人も呼んでお祈りをしてもらう。心置きなく死者に向こうにいってもらえるように。こういう話はチベットにはたくさんあるよと彼女は言う。
死者を正しく死に導く。もしくは死にゆく本人も正しく死へ向かう。輪廻転生という次の生への疑いのない肉体的な感覚というのか。いくらアタマで理解しているつもりでも僕には理解しきれないのだろう。正しく生きてさえいれば死は恐れるものではない。ただの途中経過である。ときおり見せる彼女の無鉄砲にも思える言動も、「死んだら死ぬだけ」的な言い分も、その考えにしたがえば納得できる。いい意味でも悪い意味でも一つの生の価値が僕が考えているものとは違う。命の重さ軽さなどという話ではない。生も死も個人に属する問題ではなく、もっと大きなスケールのもとで語られるべき事柄なのである。チベット本土で自ら炎に身を捧げ、死を持って抗議を行う人たち。彼らの想いもそう思うとより具体的に感じられるような気がする。
小高い丘の上の鳥葬場に、鳥葬師というのか専門の職人がいる。この職業の人のことをトンデンというらしい。なにか特別な服装でもしているかとも思ったがまったく普通の格好であると言う。ちなみに死体を運ぶ彼らの車は交通ルールの外にあるらしい。警察でも止めることは出来ない。
空中ではハゲタカが弧を描き、すでに待機している。
トンデンは死体を大きなナイフで切り分ける。魂(この言葉が適切かどうかはよくわからないが)がすでに離れた死体は、ただの肉の塊である。適当な大きさに切り分けたところで、その傍らに彼は座りツァンパを食べ、チャンを飲む。手は血まみれじゃないのと僕は聞いたが、彼女はそこまでは見えなかったと言う。これは死者の最後の食事として家族が用意するそうだ。肉料理だってある。
食事が終わるとトンデンはツァンパを宙にまく。ハゲタカの出番である。はじめにボスの名前を呼ぶらしい。ボスが一羽舞い降り肉塊をついばむ。ボスが食べ終わると、残りのハゲタカたちが降りてくる。最後にきれいに残された骨をトンデンは細かく砕き、燃やす。そしてその灰を高く宙にまく。そのとき強い風が舞ったような気がすると彼女は言った。
いろんな死のかたちがあるし、いろんな死への想いがある。
実は数日前に祖父が亡くなった。実家からメールで知らされた。家族もみなある程度の覚悟も出来ていたろうし、まあ全うしたといえるのであろう。それでも、こんなところにいて駆けつけることの出来ないジジイ不幸な孫を許してくださいと思う。もう一回会える気がしてたのになと思う。最後まで家長として威厳を保っていた祖父が、正しく勇敢に次のステージへと向かって行ったことを今は祈るばかりである。
そんなことなので親族が集まっている実家とスカイプで連絡を取ってみた。さんざん泣いたり笑ったりしたあとなのだろう、ただの酔っぱらいばかりになっているパソコンの向こうの光景に、彼女はやや、いやかなり面食らった様子であった。
いろんな死のかたちがあるし、いろんな死への想いがある。