チベット語愛餓を
一年ほどダラムサラでチベット人に囲まれて仕事をしていたわけだけど、残念なことにたいしてチベット語が上達していない。ましてやチベット文字なんかまったくわからない。時間もあったろうに、テキストだっていろいろ用意してたのに、酒ばかり飲んでるからだ。「ドッキョンレ(自業自得)」と自分に言っておこう。
ということで、いまネパールで集中的にチベット語講座が開かれている。ついでに日本語講座も。お互いに先生になってということである。
「ABC」はずいぶん前に覚えているわけだから、フランス語やスペイン語を勉強し始めるのとは訳が違う。新しい文字を覚えるというのはとても不思議な体験だ。街で看板なんかを見てもまったく目に入らなかったもの、情報として認識さえされなかったにょろにょろしたものを「これは文字なんだ」と自分に言い聞かせインプットしていく。すこしづつにょろにょろしたものと音との対応が見えてくる。壁のシミに謎を解く鍵を見いだす名探偵のようなアタマの中の一瞬の広がりがあるような気がするけど、あまりぱっとした喩えではないな。
ཀ་ཁ་ག་ང་ ཅ་ཆ་ཇ་ཉ་
まず微妙なカーブの意味が分からない。微妙な角度の意味が分からない。ここでペンをこっち側に動かす必然性のようなものが見当たらない。意味などない、必然性などない、ただたくさん書いて覚えるしかないではないかというもっともな意見もわかるのだが、もうおっさんになってしまった僕の脳みそはそんなにピュアにはできてないようだ。何かしらの関連性みたいなものがないと頭に入ってこない。とかなんとか言いながら、たった今、生まれて初めてキーボードでチベット語を入力してみて部屋で大興奮している。パソコンはどうも苦手な彼女も一緒に大騒ぎ。ただ「あいうえお」のようなものを書いただけなのだが、ピュアすぎるほどピュアではないか、オレ。
閑話休題。
彼女がチベット語書くならこっちの方がいいよと万年筆を買ってきた。今までは普通のボールペンを使っていた。これが全然違う。なんていうか気分が違う。いやというより、そこでそっちに弧を描くのが実に合理的な動きであることがわかる。文字の書き方のある程度の法則みたいなものが見えてくる。何を使って書くかということはこれほど大事なことだったとは思ってもみなかった。考えてみれば文字が出来たときに極細滑らかボールペンなどあるわけがない。竹を削って、先をある程度細くして、ある程度の太さを残して書いていたわけだ。うーんなるほど。そう思うと、ひらがなの書き方を教えるのにしても、毛筆で書かれた文字であるということ、毛筆ならではの動きの結果の文字であるということを考えると、説明の仕方も変わってくる。うーんなるほどなるほど。まだまだ気づくことはたくさんあるものだ。
とはいえまだ最初の一歩も踏み出したともいえない地点である。一つの音を出すのに文字の組み合わせと補助的な何かが必要らしい。先は果てしなく長い。較べて日本語の50音というのは書き文字と音がシンプルに組み合わさっている。チベット語には僕にはまだうまく出せない音もある。我らがご先祖様はよい言葉をつくったものだとも思うが、50音に音をまとめてしまったばっかりに、日本人は(人のことは知らないから僕はというべきか)致命的な外国語、特に英語の発音の問題に直面してるともいえるかもしれない。
ちなみに僕たちはお互いにとてもへんな言葉でお互いに話している。はじめはきちんと英語で話していたが(少なくても僕はそう思っているけど)、少しづつ僕のチベット語の語彙が増え、彼女も少し日本語を覚えはじめ、お互いに不完全な言葉を不完全なままぐちゃぐちゃ混ぜにして話しているもんだから、他の人にはわからない言語に仕上がりつつある。おかげでよその国の人に突然話しかけられると急には対応できない。明らかに僕の英語力は退化してしまっている。「もとからなに言ってるかよくわからなかったよ」とあいつは言うかもしれないが。
だからこうやって日本語で文章を書く時間は、僕にとって精神的なオアシスと呼べるのだが、怖い顔をした先生がこっちを見てるので、自主学習の時間へと戻ろうかなそろそろ。
བཀྲ་ཤིས་བདེ་ལེགས་