2014/02/12

アジャ(お姉さん)

なんだか文章を書いててわかりづらくなりそうなので、はっきり言ってしまうが、今一緒に旅行してるチベット娘は妻である。いつの間にか結婚してしまった。あまりあとさきを考えないのが僕の数少ないいいところなのだ。
まあ、そんなことはこっちに置いといて、と。

ここカトマンズ、スワヤナンブーで彼女は新しいお姉さんを見つけたようだ。
彼女の名前はデヤン。いくつか妻より年上の彼女は、隣の部屋に住んでいる。朝っぱらから例の「ディディディディディ…」を唱えてたのは彼女である。聞くとノルウェー人のボーイフレンドがいるらしく、毎日スカイプでノルウェー語のマンツーマンレッスンを受けているらしい。なるほどそういうわけで「ディディディディ…」ということか。
挨拶ぐらいはお互いにしていたけどそれぐらいという感じだったが、ある晩「彼女の部屋に遊びに行くけど一緒にいく?」と妻が僕に聞く。女同士の語らいの時間を邪魔するほど僕は野暮ではない。一人でのんびり酒を飲みながら、部屋で映画を見ることにする。
数時間後興奮した様子で部屋に帰ってきた。「新しいお姉さんを見つけたよ。姉妹の契りを交わしてきた!」人懐っこいことは人懐っこいのだが、じつはかなり人見知りで、なかなか人と腹を割って話すことが少ない彼女にしてはずいぶん珍しいことだ。明日のお昼は3人で一緒にご飯を食べる約束をしてきたという。「ほんとに考えてることが一緒なんだ。初めてだよこんなこと」実のお姉さんにも話さないような個人的な胸の内をぶちまけることが出来たようだ。いつまでも興奮したまんまの彼女は、その夜なかなか眠られなかったという。僕はさっさと眠ってしまったわけだが。

翌日デヤンの部屋に行く。彼女はもうすぐ休暇でネパールに来るボーイフレンドのために大きな部屋を借りている。キッチンもある。正面にカタを掛けた法王の写真。大きなテレビ。大きなスピーカー。テレビのしたの布をめくってみるとノルウェー語のノートがある。壁には神様を描いたいくつかのタンカ(仏教画)。毎日お供えする神様への水入れが7つ。その脇にチベットのお香。そしてその脇に並ぶ彼女の化粧道具。普通のチベットの女のコの部屋という感じだろうか。
2人が子供のときに聞いていたという、ちょっと昔の中国のラブソングをかけながら、デヤンはビールを3つのグラスに注ぐ。「彼氏と喧嘩したときなんかは決まってこの曲聞いて泣くんだよ」「そうそうあたしも一緒」「それで一人でバーに行ってビール飲んで」「そうそう!」なんだか黙っていると僕のいる場所がなくなりそうな気配なので、なんとなくネパールに来た経緯を訊いてみた。

デヤンは八歳ぐらいの頃、一人で生まれ故郷のラサから遠く離れたネパール国境に近い町に働きに出た。金銭的な事情か母親の知人のところに預けられたということだ。そしてその知人という人にずいぶんひどい扱いを受けていたという。満足な寝床も食事も与えてもらえず、殴られ、こき使われた。母親がどこにいるかも教えてもらえなかったと言う。僕の妻も小さい頃に親を亡くし、一人で街に出て働いていた。二人は僕の手の届かないところで深く共感し合っている。

「こんなことなら死んだ方がましだって思った。グラスを割って手首を切ったこともあった。死ねなかったけどね。」デヤンは手首の大きな傷を恥ずかしそうに僕に見せてくれた。
「私は毎晩神様にお祈りしていた。生まれ変わるとしたらチベット人だけには絶対なりたくないって。私が信じているのは法王様だけ。チベット人なんか大嫌い。近所に国境を行き来するためのネパール人ドライバーのための売春宿があったの。そこの女の子の一人と友達だったんだ。どこに行くとも告げられず売られてきて、男を取らされて、口答えしたら殴られて、お金だってみんなオーナーにもってかれて。どこにも逃げ場なんかない。オーナーだってもちろんチベット人だよ。チベット人は口を開けば「ニンジェ(慈悲)、ニンジェ」って言ってるけどさ、ニンジェなんてどこにあるっていうの?笑っちゃうよ。貧乏人から搾り取って、弱い女の子から搾り取って、信心深い顔してお寺やお坊さんにはポーンと寄進する。それがきれいなお金って言えると思う?いいことしてるって言えるの?ラサでリンコルしてるおじいさんおばあさんたち、あの人たちなんか毎朝オンマニペメフン、オンマニペメフン言いながらまっすぐ肉屋に行って肉を買う。集まって誰かの噂話して、よけいなお節介ばかりして、その合間のオンマニペメフンだよ。あのひとたちにとって暇つぶしだよただの。」
結局デヤンは17、8歳頃働いてた家を逃げ出し、ネパール、インドへと亡命したと言う。1年ほどインドで学校に通ったが、チベットに戻り母親を捜しに行った。しかし見つけることができずに、再びネパールへ。未だにお母さんが生きてるかどうかもわからない。
「カトマンズに戻ってきたときはホントに一文無しだったの。それで仕事を探そうとチベット人のレストラン何件も回ったけど、みんな私の汚いなりをみてあっち行けって。で、最後に中国人のレストランのオーナーにすぐうちに来いって言われて、ご飯食べさせてもらって服だって用意してくれて、そこで働かせてもらうことになったの。中国政府はとんでもなくわるいやつらだけど、普通の人はいい人いっぱいいるよ。チベット人よりもね。」
今は中国人ツーリストの通訳やトレッキングのガイドなんかの仕事もしているらしい。

「ホントに死のうと思ったことも何度もあるけど、私たちはギブアップしなかった。だから今はフリーダム。こうしてビールを飲んでられる。」
2人は再びグラスを重ね合わせる。
タバコの箱を開けると、ちょうど最後の三本。3はチベット人には吉兆の印。

僕たち三人は顔を見合わせ、お互いにそれぞれのタバコに火をつける。