2015/09/16

はたしてビールびんの中にホーキ星ははいっていたか?

新しいお店を始めた。「ホーキ星」という店。東京下北沢である。

店を作ったのは2度目となる。以前は国分寺で「トネリコ」という店をやっていた。最初の店を始めたのはもう10年ほど前の話になるのか。

なんでも初めてのことは、いちいちエキサイティングな出来事である。物件を探し、業者を探し、内装を考える。ペンキを塗って、備品を買い揃え、メニューを作る。見たこともない大金をあちらからこちらへ。そんな初めてだらけの日々を楽しんでいた。当時のことを書いたものを読み返すと、なんとも言えない心持ちになってしまうのはいろいろな事情が絡まり合っているからかもしれないが、ともかくフレッシュな感じがする。いってしまえばなかなか気恥ずかしい。

そしてやはり2度目は2度目だ。僕は気付かぬうちに大人になっている。自覚はないが過ぎた時間はそのまま経験として積み重なっているようなのだ。10年前、初日は6時オープンの予定が8時になった。時間どおり来てくれた数人のお客さんを帰した。開けたはいいが、ぽつぽつ入った料理のオーダーを眺め、何をしていいかわからず、ただただしゃがんで冷蔵庫を開け閉めしていた。ほんの数時間の営業で疲れ果て、片付けも出来ず、記念すべき最初のおつかれビールの乾杯もせず、お客さんが帰ると同時にそのまま店で寝てしまった。そんな僕はもういない。こんな仕事するんじゃなかったと初日に心底後悔した僕はもういない。
ということで、実にさらっと、落ち着いた顔をして始まったというのがひと月ほど経った僕の印象である。まあお客さんが見てどう思っているかは別の話なのだが。

店の外には「ワインと料理 ホーキ星」という看板がある。それ以外は特にない。2階なので中を覗き込むこともほとんどできない。知らない人には情報は少なすぎるという気がする。しかし残念ながら、僕は店をわかりやすく説明する言葉を持ち合わせていない。どんな料理?と聞かれてもうまく答えることができない。だいたいふりかえってもフランス料理屋で修行していたとか、イタリアに渡り勉強してきたとかそういうわかりやすさが全くない。なんといってもちょっと前までインドでかき揚げ丼を作っていたのだ、チベット人と。わかりづらすぎる。
「バー」とか「レストラン」とかその手の言葉がいろいろあるが、そういうのはあまりすきではないし、勝手に分類もされたくないし、決めたくもない。われながら面倒くさい。

「わかりやすさ」を躊躇するのはなんでだろう。ある種の「わかりやすさ」は、お客さんにとってはとっつきやすいし、よけいな説明も勘ぐりも疑心暗鬼も必要ないわけだし、大切なことではあるというのは理解出来る。しかし、そのとっつきやすさはその分消費されるのも簡単なんではないかということを僕は本能的に思うのである。僕は今の高度消費社会を、簡単に言ってしまえばお客さんを恐れているのだ。新しい店を始めたばかりでそんなあけっぴろげなことを公にいってしまうのもどうかと思うが、本当なんだからしょうがない。これだけ簡単に情報が流れてどっかに通り過ぎていく社会に違和感を感じているとでもいえば理屈が通るか。店とお客がお互いに勘ぐり、疑心暗鬼の時間を経て、手探りで一歩づつ近づいていく、そういうアナログなコミュニケーションの仕方こそが、濃密な時間の流れるいい店を作っていくんではないかと思うのだ。今までもそうやってやってきたし、これからもそうやっていく。これは、2度目の店ではあるが、まだまだ青臭いままでやっていくぜという、一つの決意表明である。大げさで面倒くさいことこの上ない話であるが。


「ホーキ星」というのは稲垣足穂の文章の中から拝借した。彼の文章のファンであるのはもちろんだが、稲垣足穂自身の持つ「得体のしれなさ」に魅せられ、その「得体のしれなさ」にあやかりたいと思っている。そしてなにより「ホーキ星」とは「彗星」のことである。地球上のあらゆるボーダーをあっさりと飛び越えまたどこかむこうへいってしまう軽やかさ。そういう店にしたいと思っている。やや強引ではあるが、これで納得していただけたら幸いだ。


というわけで、みなさま末長くどうぞよろしくお願いします。
こう見えて僕は結構おしゃべりです(酒が入れば)。



ちなみに1年以上放置したままだったこのブログ。インド・ダラムサラから日本へ来るまでの、チベットにまつわるあれこれを書いてきましたが、第2章は下北沢のカウンターの中からの定点観測ということでぼちぼち書いていきたいと思ってます。こちらもどうぞおたのしみに。

2014/05/13

ぶん投げる

日本に来てはや2ヶ月が過ぎた。妻も少しづつ僕の友達やらなんやら、いろんな人と出会う機会が増えてきた。彼女の順応能力の高さに驚く日々である。

先日京都でチベット料理をみんなで作って、みんなでチベットのことを話そうという小さなワークショップを開いた。町屋の小さな会場でのかなりアットホームな会。先生としてみんなにモモの包み方なんかを彼女は教えていたわけだが、かなりのカタコト日本語でどうにかなるもんだと、ちょっと離れたところで感心していた。

コミニュケーションということについて最近よく考える。彼女はたくさんの言語を話せるわけだから、言語の能力に長けているということにとくに疑問を挟む余地はない。ただ最近あらためて気づいたことはコミュニケーションということにおいて、言葉とは違う問題なんだなということだ。なんだか書いていてコミニュケーションという言葉が鼻に付いてきた。今の日本の文脈でよく使われる「コミニュケーション能力」という言葉、略して「コミュ力」なんて言葉に、なんとも言えないいらだちを感じるのはなんでだろうか。
相手を知ろうと言う欲求と、自分のことを伝えたいという欲求、テクニックなんかではなく、ただその欲求さえあればいいのだというごくごく単純なこと。言葉は一つの手段にすぎない。外国にいるとそんなことは当然のように感じることが出来る。いや、それはただ言葉の出来ない自分への言い訳のための論法であったか。まあ言い訳でもなんでも、笑われようがなんだろうが、伝えないことにはおなかをいっぱいにすることすら出来ないのだからしょうがない。インドでの1年はあの手この手で通じ合う努力をした1年間であった。愛想のない酒屋、どうしても聞き取れない変な英語の切符売り場のオッちゃん、ケツをたたかなくては働かないレストランの同僚達。もちろん妻となった彼女とだっておんなじことである。いまだってよくやってるなと思う。お互いの不完全な英語(あんたと一緒にするなと彼女は言うに違いないが)、初級クラスの僕のチベット語、そして彼女のカタコトニホンゴ。あとは熱意だけである。こうやって並べてみたら、なんかそんだけありゃ充分じゃないかという気もしてくるが、はっきり言ってギリギリである。でもどうにかなっている。
京都での会を企画してくれた古くからの友人は、久しぶりに僕に会ってずいぶん変わったと言った。昔に比べ、「開かれた」とその友人は言う。昔はそんなじゃなかったよと言う。その人は特別に自分を開きっぱなし垂れ流しというところがある人なので、自分と比べちゃいけないよという言葉も出かかったし、そんなこと簡単に認めるのも恥ずかしい気もするのだが、よく考えてみるともしかしたらその指摘は正しいのかもしれないなと思う。

もともと言葉で伝えることに大きな重きを置いて暮らしていたほうだと思うし、そのぶん自分の口から吐き出す言葉には何度も自分で検閲をかけていたほうである。なので言葉の瞬発力はまったくないのだけど、言葉の力を信じている、そういう部類の考え方をしていた。お互いに言葉を積み重ねることこそが理解し合う正しい道である、そういうこと。もっともその考えは大雑把にいうと今も変わらないと思うのだが。ただ振り返って、言葉の力を信じるあまり、その理解を相手にゆだねる部分も多かったのではないか、そんなことを考えた。言葉は自分を伝える媒介でしかないとしたら、媒介が間に入れば入るだけ、伝えるということにおいて考えると、誤差が出ることもあるということだ。自分の心をそのまま直接相手にぶん投げたほうが伝わるに決まってる。
僕はダラムサラの一年でぶん投げる人に成長したということなのだろうか。いや、やっぱりそんなこと簡単に認めたくない。難しいところだ。ただはっきり言えるのは街を歩きながら僕らが笑うと、けっこうな確率で誰かは振り返るということ。つられて僕の笑い声まででかくなったのは間違いなさそうだ。

これからチベット人の女の子と結婚するという人にもあった。日本人の女の人とチベット人男子と言う組み合わせはまあいるのだが、逆のパターンに会ったことはないというのはお互いにそうだったので、なかなか話し合うべきことがたくさんある出会いであった。彼はチベットにも長く行っていたようだし、チベット語も堪能なようで僕なんかと一緒にするべきではないのだけれど、それでも話し合うべきことはたくさんある。相手の子はチベット本土に住む遊牧民で、写真を見せてもらったが、いったいどこで見つけたのかと言いたくなるようなカワイコちゃんであった(実際声に出したかもしれないが)。今後は向こうで一緒に住むと言う。彼は彼女と知り合って自分もピュアになったような気がするというようなことを言っていた。うーん分かるような気がする、いやちょっと僕の場合は違うような気もする。ラサの子と遊牧民の子の違いか。ピュアと言えばピュアだけど、その言葉のイメージをこえたダイレクトな凶暴性を秘めているなんてことは妻の横じゃもちろん言わなかったけど。


とにかく僕らはぶん投げあってコミュニケーションをとっている。キャッチボールというよりドッチボールである。取ってもらうよりぶつけるのが先である。たまに突き指ぐらいはすることもある。でもたかが突き指である。そのうち指など太くなるし強くなる。そういう新しい相互理解の仕方を僕は楽しんでいる。けしてマゾヒスティックな喜びなんかではないと僕は思っているのだが。




2014/04/05

雪の国から魚の国へ

食器洗い用のスポンジが魚の形をしている。
「日本人はどこまで魚が好きなんだ!」
彼女は驚く。確かに言われてみればそのとおり。魚の形にする必要などまるでない。そう、我々は魚の国の人たちなのだ。
対してチベット人は魚を食べる習慣はない。肉は大好きだからベジタリアンと言うわけではないのだが、動物の命をとって食べるというとき、気にするのは命の数のようだ。ヤクや羊のような大きな動物は一頭つぶして何人ものおなかを膨らませることができる。それに比べて魚じゃそういうわけにはいかない。シラス丼とかイクラ丼なんてもってのほかである。どれだけの数の命を食べて腹を満たすのか。そう考えるようだ。もっとも魚を食べない理由はそれだけでもなく、水葬も多いチベットでは川に対する不浄感のようなものもあるようだし、単に食べたことがないから気持ち悪いという人も多い。日本に比べて食べるものの種類が圧倒的に少ない人たちだから、食べ物に保守的になるのは想像に難くない。

そんなチベット人である僕の奥さんであるが、彼女はとりあえずなんでも食べてみる。イカの丸ごと一夜干しの姿にびびりながらもとりあえず食べてみる。タコなんか絶対食べないと言っていたけど、目の前にあればとりあえず食べてみる。そのチャレンジ精神たるや恐れ入る。そういやイナゴも食べてたし。そうやっていろいろ食べてみた結果、刺身はかなり気に入ったようだ。ダラムサラにいる友達に生の魚おいしいよなんてことを話しているが、みんな一様に驚いてる。よくそんなもん食べれるなと。食べ物に対する柔軟性。これは初めての場所で暮らすのにもっとも大事なことだろう。彼女はどこでもやっていけそうなのでとりあえず一安心というところか。

日本に来て驚いたことはと訊ねると、一番に出てくるのが若い女のコの服だ。冬なのに生足出して、それでいて上着はモコモコ着込んでいて変だと言う。あの人達は寒くないのか、夏になったらどんな格好するのか、水着だけで歩き回るんじゃないだろうなと彼女は訝る。来たばかりの頃、二人で原宿、表参道辺りを散歩した。僕もほとんど縁のないところなので二人そろってまったくの異邦人である。いちいち通り過ぎる女のコたちの奇抜なファッションに「ほー」と声をあげる僕たち。いやどちらかと言うと彼女は眉をしかめる。ある洋服屋の前でマネキンだと思ってたピンクの髪の娘が急に歩き出して本気で驚く僕たち。ありゃたしかによそから来たらビックリする。
そして日本人の年齢が分からないと言う。若く見えて驚く。僕の祖母の年を聞いて驚く。会ってみてその元気さに驚く。そして結構年取った人たちも元気に働いていてまた驚く。居酒屋のパートのおばちゃんたちに驚く。チベットだったらあれぐらいの人たちはお寺にリンコルいって一日おしゃべりしてるだけだよという。どっちがいいことなのかよくわからないけど、日本はよそより長生きの国であることはたしかなことだ。
もう一つ、日本の生ビールの美味しさに驚いたと言う。インドで星の数程のビールを一緒に飲んだが、その度に日本のビールは美味しいよ、泡がたまらないんだよということをしつこく言ってきた僕にとってはうれしい言葉である。向こうでは泡がなるべく出ないように出ないようにとビールを注ぐのだが、瓶ビールだって美しい泡というのがあるのだよということを分かってもらえたようだ。

東京は桜の季節まっただ中。僕らはつまみと酒を持ってそれらしい場所へと向かう。
日本人にとって桜は春を告げるもっともエキサイティングな花であるということ、あのクレイジーなピンクと一気に散ってしまう儚さがあいまって、日本人は桜の下では正気を保つことは難しいのだということを説明する。お祭り関係には異常に熱心なチベタンスプリットの彼女にとって、桜の木の下の酔客たちを理解することは難しいことでも何でもない。説明するまでもなくすでに彼女の心は臨戦態勢である。
夜桜で乾杯。
酔ってしまえば文化の違いなんてまったくもって小さなこと。彼女がネクタイを頭に巻いてというような典型的な酔っぱらいのオッちゃんみたいになってもまったく驚かないなと思いながら、夜風に舞う桜の花びらをみんなで追っかけてみる。




2014/03/10

「3.10」

3月10日はチベット人にとってとても大切な日である。
55年前のこの日ダライラマ法王を中国から守るためにラサ、ノルブリンカに数万人のチベットが集まった。これが「1959年チベット蜂起」のきっかけである。中国軍はこの群衆に攻撃し、数週間で数万人が命を落とした。そしてダライラマ法王の一行はインドへと亡命した。
ロサが新年を祝う日であるのに対し、この日は政治的な意味合いでチベット人の鼻息が、一年で一番荒くなる日なのだ。もちろん連れの鼻息も荒くなっている。
3月10日は世界中のチベット人、チベットサポーターが街に出て「FREE TIBET!」と声をあげる。日本では3月9日の日曜日にデモが行われた。人の集まり易い日曜日にといった配慮だろう。僕と妻ももちろん出かけた。
日曜日の渋谷にチベットの国旗がはためく。集合場所の公園に集まったのはざっとみて50人くらいか。ちらほら見覚えのある顔もあるがチベット人はやや少なめ。彼女は明らかにそのことに対し不満そうである。チベット人を中心にみなでお祈りを捧げ、国歌を歌う。

そう言えば彼女はインドに亡命するまで、チベットの国旗も国歌も知らなかった。それどころか自分がチベット人であるということを知らなかった。知る機会がなかった。ネパールとの国境に近い町のホテルで働いているときにインドから帰ってきた一人のチベット人男性を助けたことがあるという。彼は山越えの途中で、おそらく国境警備隊に銃撃され足に怪我をしていた。彼をホテルに匿い手当をしていた彼女は、その男性から自分たちのこと、つまりは自分たちはチベット人であるということ、そしてインドに自分たちの大事なラマがいるということを初めて聞いたという。そして彼が隠し持っていたダライラマ法王の写真を受け取った。それがインドに行こうと思った最初のきっかけだ。

そんな彼女が今日はデモの先頭で横断幕を持って、国旗を持って歩こうとしている。何人かの人たちが大丈夫かと彼女に声をかける。先頭にいれば当然写真にも写る。なにがしかのメディアに出るかもしれない。ましてやマスクもサングラスも持ってない。チベットに家族が残る人は表に出るわけにはいかないだろう。そうじゃなくても今後チベットに行くときになにか問題になるかもしれない。でも彼女は言う。
「大丈夫、大丈夫。私にはなんにもない。」
手ぶら無鉄砲娘の面目躍如。
僕は後ろで内心ヒヤヒヤしていたが、まあ言い出したら聞かないので黙って見守ることにする。
そうしてデモはスタートする。

歩きながら、大きな声をあげながら、去年はダラムサラでたくさんの人たちと一緒に歩いていたんだなと思った。この先こういうチベットの行事のたびに一年前のダラムサラを思い出すんだろうな、そう思った。一年前、僕は気のいいノッポのクンガと歩いていた。器用なクンガはみんなの顔にチベット国旗をペイントし、自分は大きな背中に大きな国旗を背負っていた。その横で僕は意味の全く分からないチベット語のコールをなんとか繰り返していた。朝は今にも降り出しそうな空だったが、途中から日差しも強くなり、僕はたくさん汗をかいていた。拡声器に挟まれ、幼い尼さんたちと大きな声をあげていた。
そして今東京。街頭の人たちはぽかんとしている。買い物袋を抱えてぽかんとしている。日曜の渋谷にあらわれたどうしても拭えない異物感。ニューヨークはどうなんだろう。パリはどうなんだろう。もっと違うリアクションがあるのではないだろうか。日本ではあまりにも知られていない話なんだな、そう思わざるをえなかった。もっとも僕もダラムサラに行く前はどうだったと言われると似たようなものだったかもしれない。でも今はずいぶん違うことになっている。遠い話ではなくなってしまっている。思えばそれも妙な巡り合わせなんだけど。
一時間ほどかけて渋谷、表参道と周った。そういえば日本についてすぐに彼女を連れてこの辺を歩いた。今日道路から見た街はどんな風に見えたんだろうか。

デモが終わり、場所を変えて簡単な懇親会のようなものがあった。日本人と在日チベット人がお互いに交流しようという会。日本に来て15年という人がこんな話をしていた。「日本に来たばかりの頃、ちいさな町工場で働いていた。僕はどの人が社長か分からなかった。聞いてみたら横で作業しているおじいちゃんが社長だった。その人の指は機械にやられて全然なかった。社長なのに、おじいちゃんなのにこんなに働いていることが驚きだった。日本は実際は小さな国だけど、こういう人たちが日本を大きな国にしたんだと思った。チベット人はもっと頑張らないと。」
やはり日本で働くということは彼らにとって思ったよりハードなことなんだろう。ここはチベットでもなければネパールでもインドでもない。いいことか悪いことかはわからないが日本はよく働く国なのだ。
日曜日だというのに参加者にチベット人が少ないと、一人の先輩チベット人に妻は不満を漏らしていた。彼はこう言う。「あなたもしばらくここに住んだら分かる。そんな簡単な話じゃないんだよ。」
いろんな意味合いが含まれていそうなその言葉。


彼女のジャパニーズライフは始まったばかりだ。



2014/03/02

あたらしい年

今年3月2日はチベット歴の新年「ロサ」である。
チベット人はこの日の二日前から準備を始める。日本で言えば年越し蕎麦のような意味合いでトゥクパを作り、部屋の掃除をし、仏壇の飾り付けをする。飾り付けも簡単なものではない。いろんな形のカプセ(小麦粉、牛乳、バターなどで作る揚げ菓子のようなもの)を作り並べたて、ダライラマ法王の写真や仏教画の周りを飾り付ける。他にもツァンパやお祝い用のご飯、お菓子、ジュース、果物、カタなどなど用意しなければいけないものはたくさんある。「ロサ マレ、レサ レ」。チベット人は冗談でそう言うらしい。「『ロサ』じゃないよ、ほとんど仕事だよ」という意味。二日前に作るトゥクパの中にはおみくじのような紙を混ぜ込み、食べた人の新しい年を占うらしい。そうやって一生懸命準備をし、新しいきれいな服を用意し、新しい年を迎える。本来ならば新年は15日間お休みして祝い続けるという。15日間ってそんなに悠長に新年を祝ってるのはチベット人ぐらいなものだ。ただ最近はダラムサラでは、チベット本土で続く焼身自殺などの状況を考え、2008年以降自粛ムードにあったようだが、今年はチベット人の伝統を若い世代に引き継ぐために、騒ぎすぎない程度にということで、ロサ解禁のお達しがあったようだ。もっとも僕はいなかったのでいままでのことは知らないし、みんながホントに自粛できていたかどうかはクエスチョンマークである。ちなみに妻は数年前のロサに3人で10キロの肉を食べて3人そろっておなかを壊したと言っていた。

そんなロサを彼女は日本で迎えることになった。ダラムサラやカトマンズの友達から送られてくる大晦日の様子を見るまで、彼女は今日がその日だと言うことを忘れていたりするのだが、いざロサモードに切り替わると急にソワソワし始める、というより興奮し始める。チベット娘の心の中の爆竹はいつでも点火待ちなのだ。どんどん出てくる故郷ラサでの家族とのロサの思い出。ビール片手に、彼女は真夜中ずいぶん遅くまで僕に話してきかせてくれた。

そして3月2日。僕らは在日チベット人たちによるロサのパーティーに行った。
その日の東京は冷たい雨。しかしチベット人にとってこういう日の雨は祝福の雨。神様がお祝いの花を降らせてくれているのだ。ただそれが僕たち凡人には雨にしか見えないだけ、彼らはそう言う。思えばダラムサラでもダライラマ法王のティーチングのある日は決まって雨が降っていたような気がする。それもどしゃ降り。それでティーチングが終わる時間になるとすっかり上がっていたりした。祝福の雨、うん、なんか悪くない。
会場である川崎のお寺の小さなホールに到着する。受付ではきれいなチュパを身にまといしっかりメイクアップした若い子が僕らを案内してくれた。東京に来て一週間、初めてチベット人に会ったということになる。彼女も持ってきたチュパに着替える。会場に入っていく彼女の背中に向かって、負けんじゃねえぞニューカマーよ、つぶやいてみたりして。

亡命チベット人社会から日本にやってきているチベット人は100人程だという。アメリカ5000人、スイス3000人などの数字をみると圧倒的に日本は少ない。もっとも難民として認められていない日本にわざわざ来るメリットはチベット人にとってまったくといっていいほどない。少ないのも当然だ。チベット本土から留学生として中国パスポートで来てる人たちはもっといるようだが、その人たちと、亡命チベット人が出会う機会はほとんどないそうだ。日本にいたって中国大使館の目がどこにあるかはわからない。本土の人が亡命した人と接触するというのはそれぐらい危険なことなのだ。逆に言えばそれだけ中国政府が恐れているという言い方も出来るかもしれない。そう言えば前回日本に帰ってきたときに本土のチベット人映画監督の上映会に行ったが、彼はとてもとても慎重に言葉を選んで自分の映画について語っていた。日本にいると考えもつかない息苦しさが、隣の国には存在している。

いつの間にか彼女はチベット人の女の子たち(?)の輪に加わっていた。聞いてみるとみな日本語も出来るし、それぞれ仕事もしているようだ。彼女がほんの1週間前に日本に来たことを知ると、いろいろアドバイスをくれた。いわく日本語が出来ないうちはなかなか大変だよ、他の国とちょっと違うよ日本は。でも日本語がちょっとでも出来るようになるとけっこう心地よいよ。日本人みんないい人だし、とまで言っていたかどうかは記憶が定かではないが、みんな自分が苦労してきた分、新しい仲間に親身になってくれる。たまにみんなであつまって遊ぶからいっしょにおいでよ、カラオケでも行こうよ。まあカラオケのことを話してたかどうかも分からないけどそんな感じだ。同世代の女子が集まっている感じ。日本に来ても特に食べ物に関しても不自由なさそうだし、僕の家族たちとも楽しくやってけそうだったのであまり心配はしてなかったけど、やはり自分の国の言葉で気安く話し合えるというのは大事なことなのだ。さっそく電話番号の交換をしている。こうやってすこしづつ異国の中に自分の場所を作っていけたら、いつの間にか異国の風景も違って見えるんだろうなと、僕はやや他人事みたいに女子たちを遠巻きに眺めていた。


さてさてロサのパーティーである。始まりにみなでお祈りをしたりはしたが、基本的にはいつものチベット人の宴会スタイル。ご飯を食べ、酒を飲み、あとは歌って踊って、カードやサイコロなど気ままにダラダラと。チベットやインドのヒットソングが大きなスピーカーから流れる。自然にできる人の輪。僕にしきりに一緒に輪に入って踊ろうと彼女は言う。僕は断る。「行ってみんなといっしょに踊ってきなって」僕としては踊ったっていっこうに構わないのだが、踊ったら踊ったで踊りがかっこわるいとか文句を言われるのがオチなので踊らないことにする。「行ってきな、行ってきな」「えーちょっと1人じゃー」「いいからいいから」「いやでもー」そんなこといいながら彼女の体は勝手に動き出している。イッツオートマティック。ポンと背中を一押しするだけで、あっというまに輪の中に溶け込んでいく。あっというまに見えなくなってしまう。



2014/02/22

「アウトカントリー」というやつ

妻は、一月に子供と二人で夫の待つフランスへと旅立ったお姉さんとたまに連絡を取っている。
亡命してきた難民としてフランス政府に受け入れられているのでなかなか手厚いサポートがあるようだ。家が用意され、毎月の補助金があり、毎日食料の配布もある。野菜、果物、缶詰類、バケットなどを両手いっぱい抱えている写真を見ると、はっきりいってうらやましい。いつまでかはっきりとは分からなかったけど、しばらくは補助をうけられるようだ。
夫はすでにチャイニーズレストランで働いているし、お姉さんももうすぐ働き始めることが出来るらしい。何年か二人でガッツリ働く。学校に行く年齢になったら子供はチベットの親戚のところへ預け、向こうの学校に行かせる。十分稼いでチベットに戻り家族みんなで暮らそう、それが今の彼らのプランだ。
フランス語も英語もろくに話せない彼らの仕事がチャイニーズレストランになるのは妥当なところなんだろう。そしてやっぱりフランスに根を生やすという考えはないようだ。自分で選んで亡命してきたのだけれど、やっぱりチベットに帰りたい。亡命したときは彼らが何を求めて出てきたかは僕には分からない。いつ亡命してきたかによって向こうの様子がだいぶ違うので状況は人それぞれだ。
ただ言えるのはインドにいることに未来を感じることは出来ない、そういうことだ。
やはりお金の問題である。信仰だけではお金は降ってこない。神様はおなかまでは満たしてくれない。

ダラムサラでiPhone持って、Mac持ってという人はだいたい海外の親戚などから送金のある人だ。そんな人たちは仕事もしないでぶらぶらしてられる。朝から晩まで働いてる人たちは、そういう人がいない人。iPhoneなんて夢のまた夢。インドのサラリーなんて部屋代払って電気代払ってもうおしまい。妻がよくそんなことを言う。だからみんな外国に行きたがる。
みなスマートフォンで毎日通貨レートをチェックし、韓国ウォンが上がった下がった、シンガポールはどうだ、マレーシアはどうだと一喜一憂してる。どこの国に行って働くか、どこの国で働くのが割がいいか、そんなことを考えている。通貨レートだけじゃなくてその国の物価とかいろいろ他の要素もたくさんあるだろうにとも思うのだが、みな夢を見ている。

2000年頃まではお坊さんや尼さんは比較的容易に外国へ行けたらしい。チベットから亡命してくる人たちも多かったその頃、ヨーロッパを始め諸外国の支援が厚かったということだ。それでたくさんの人が外国へ行った。外国に行きたいがためにお寺に入った人もたくさんいたという。その後亡命政府の意向もあったのかインドから出国する審査というのが厳しくなったらしい。
政府、NGO、支援団体、個人のスポンサーなどの正式な招待のもとに外国にいくのが1つの方法。これは抽選や審査があったり、たくさんの枠があるわけではないので競争率はかなり高い。2つめが先に行った配偶者や親戚に呼び寄せてもらう方法。それもだめなら残っているのはイリーガルな方法。ブローカーのような人がいる。どうやってその国まで行くのかと思うが、いろんな方法があるんだろう。山を越えたり、海を渡ったり、偽造パスポートを使ったりというところか。目的の国の国境まで来てしまえば、パスポートなんかは全部捨てて、亡命してきました!と両手を上げる。ブローカーにはかなりの大金を払う必要がある。インド、チベット、海外の友人親戚からかき集めてようやくお金を作る。向こうについて働き始めればお金は返すことが出来る。ただ成功するかどうかは運次第。実際以前レストランで一緒に働いていた友人はヨーロッパを目指したが、途中イラクかどこかで捕まり、強制送還となった。道中自分が今どこにいるかよくわかってなかったという彼は、数ヶ月後にすっかりやつれ、髪もひげももじゃもじゃになって帰ってきたという。
彼はその後もオーストラリアの抽選に応募し続けているが、いっこうに受からない。彼の隣に住んでいる人が受かった。隣人はもうすぐオーストラリア、友人はまだダラムサラ。
もう一人別の友人も、いろんなところにいろんな方法で外国に行くためにトライしているが、いっこうに書類が通らない。この間会ったとき、もう疲れたとこぼしていた。インドに来て10年、先の見えない不安。こんなことならチベットに戻ろうかな、チベットに戻ってレストランを開こう。彼はそう言う。故郷に戻って家族の近くで暮らし、ツァンパを食べてた方がよっぽど幸せなんじゃないか。最近お母さんからしょっちゅう電話が来るんだ、ご飯ちゃんと食べてるか、ブランケットは暖かいのがあるかって。いつもおんなじことを言うお母さん。もう年取ったお母さんに心配かけさせてるのもよくないよな。小さな口をさらにつぼめて、彼はそうこぼす。

実際チベットに戻る人も多い。政治的なことに口を閉じてさえいれば、仏教のことは心の中にしまってさえいればいいんだ、そうすれば今よりは楽な暮らしが出来る、彼らはそう言う。それじゃあ経済的な幸せが人々の幸せだと信じて疑わない中国政府の思うつぼなんじゃないのか、と僕は思う。町中に武装した警官が立って監視されていたって暮らしがよければ我慢できる?ダライラマ法王の写真の代わりに毛沢東の写真を飾れと言われて我慢できる?と僕は思う。だけれど僕に口を挟む資格は全くない。いっこうに状況の変わらないチベット問題にいらだつ彼らの気持ちを、僕は完璧には共有することは残念ながら出来ない。

それぞれの逡巡と決断。

ところで僕たちは日本で暮らすことにした。
外国人にとって、きっととっても暮らしにくいであろう日本で暮らすことにした。この先どうなるか、自分と彼女の分ニ倍よくわからないことになっている。
日本政府はチベットという国の存在を認めていないので、彼女は無国籍ということになる。
無国籍と宿無し職無し。ないないづくしの僕たちである。

はてさてこの先どうなることやら。乞うご期待。いや危なっかしくてしょうがないな、実際。




2014/02/12

アジャ(お姉さん)

なんだか文章を書いててわかりづらくなりそうなので、はっきり言ってしまうが、今一緒に旅行してるチベット娘は妻である。いつの間にか結婚してしまった。あまりあとさきを考えないのが僕の数少ないいいところなのだ。
まあ、そんなことはこっちに置いといて、と。

ここカトマンズ、スワヤナンブーで彼女は新しいお姉さんを見つけたようだ。
彼女の名前はデヤン。いくつか妻より年上の彼女は、隣の部屋に住んでいる。朝っぱらから例の「ディディディディディ…」を唱えてたのは彼女である。聞くとノルウェー人のボーイフレンドがいるらしく、毎日スカイプでノルウェー語のマンツーマンレッスンを受けているらしい。なるほどそういうわけで「ディディディディ…」ということか。
挨拶ぐらいはお互いにしていたけどそれぐらいという感じだったが、ある晩「彼女の部屋に遊びに行くけど一緒にいく?」と妻が僕に聞く。女同士の語らいの時間を邪魔するほど僕は野暮ではない。一人でのんびり酒を飲みながら、部屋で映画を見ることにする。
数時間後興奮した様子で部屋に帰ってきた。「新しいお姉さんを見つけたよ。姉妹の契りを交わしてきた!」人懐っこいことは人懐っこいのだが、じつはかなり人見知りで、なかなか人と腹を割って話すことが少ない彼女にしてはずいぶん珍しいことだ。明日のお昼は3人で一緒にご飯を食べる約束をしてきたという。「ほんとに考えてることが一緒なんだ。初めてだよこんなこと」実のお姉さんにも話さないような個人的な胸の内をぶちまけることが出来たようだ。いつまでも興奮したまんまの彼女は、その夜なかなか眠られなかったという。僕はさっさと眠ってしまったわけだが。

翌日デヤンの部屋に行く。彼女はもうすぐ休暇でネパールに来るボーイフレンドのために大きな部屋を借りている。キッチンもある。正面にカタを掛けた法王の写真。大きなテレビ。大きなスピーカー。テレビのしたの布をめくってみるとノルウェー語のノートがある。壁には神様を描いたいくつかのタンカ(仏教画)。毎日お供えする神様への水入れが7つ。その脇にチベットのお香。そしてその脇に並ぶ彼女の化粧道具。普通のチベットの女のコの部屋という感じだろうか。
2人が子供のときに聞いていたという、ちょっと昔の中国のラブソングをかけながら、デヤンはビールを3つのグラスに注ぐ。「彼氏と喧嘩したときなんかは決まってこの曲聞いて泣くんだよ」「そうそうあたしも一緒」「それで一人でバーに行ってビール飲んで」「そうそう!」なんだか黙っていると僕のいる場所がなくなりそうな気配なので、なんとなくネパールに来た経緯を訊いてみた。

デヤンは八歳ぐらいの頃、一人で生まれ故郷のラサから遠く離れたネパール国境に近い町に働きに出た。金銭的な事情か母親の知人のところに預けられたということだ。そしてその知人という人にずいぶんひどい扱いを受けていたという。満足な寝床も食事も与えてもらえず、殴られ、こき使われた。母親がどこにいるかも教えてもらえなかったと言う。僕の妻も小さい頃に親を亡くし、一人で街に出て働いていた。二人は僕の手の届かないところで深く共感し合っている。

「こんなことなら死んだ方がましだって思った。グラスを割って手首を切ったこともあった。死ねなかったけどね。」デヤンは手首の大きな傷を恥ずかしそうに僕に見せてくれた。
「私は毎晩神様にお祈りしていた。生まれ変わるとしたらチベット人だけには絶対なりたくないって。私が信じているのは法王様だけ。チベット人なんか大嫌い。近所に国境を行き来するためのネパール人ドライバーのための売春宿があったの。そこの女の子の一人と友達だったんだ。どこに行くとも告げられず売られてきて、男を取らされて、口答えしたら殴られて、お金だってみんなオーナーにもってかれて。どこにも逃げ場なんかない。オーナーだってもちろんチベット人だよ。チベット人は口を開けば「ニンジェ(慈悲)、ニンジェ」って言ってるけどさ、ニンジェなんてどこにあるっていうの?笑っちゃうよ。貧乏人から搾り取って、弱い女の子から搾り取って、信心深い顔してお寺やお坊さんにはポーンと寄進する。それがきれいなお金って言えると思う?いいことしてるって言えるの?ラサでリンコルしてるおじいさんおばあさんたち、あの人たちなんか毎朝オンマニペメフン、オンマニペメフン言いながらまっすぐ肉屋に行って肉を買う。集まって誰かの噂話して、よけいなお節介ばかりして、その合間のオンマニペメフンだよ。あのひとたちにとって暇つぶしだよただの。」
結局デヤンは17、8歳頃働いてた家を逃げ出し、ネパール、インドへと亡命したと言う。1年ほどインドで学校に通ったが、チベットに戻り母親を捜しに行った。しかし見つけることができずに、再びネパールへ。未だにお母さんが生きてるかどうかもわからない。
「カトマンズに戻ってきたときはホントに一文無しだったの。それで仕事を探そうとチベット人のレストラン何件も回ったけど、みんな私の汚いなりをみてあっち行けって。で、最後に中国人のレストランのオーナーにすぐうちに来いって言われて、ご飯食べさせてもらって服だって用意してくれて、そこで働かせてもらうことになったの。中国政府はとんでもなくわるいやつらだけど、普通の人はいい人いっぱいいるよ。チベット人よりもね。」
今は中国人ツーリストの通訳やトレッキングのガイドなんかの仕事もしているらしい。

「ホントに死のうと思ったことも何度もあるけど、私たちはギブアップしなかった。だから今はフリーダム。こうしてビールを飲んでられる。」
2人は再びグラスを重ね合わせる。
タバコの箱を開けると、ちょうど最後の三本。3はチベット人には吉兆の印。

僕たち三人は顔を見合わせ、お互いにそれぞれのタバコに火をつける。