ぶん投げる
先日京都でチベット料理をみんなで作って、みんなでチベットのことを話そうという小さなワークショップを開いた。町屋の小さな会場でのかなりアットホームな会。先生としてみんなにモモの包み方なんかを彼女は教えていたわけだが、かなりのカタコト日本語でどうにかなるもんだと、ちょっと離れたところで感心していた。
コミニュケーションということについて最近よく考える。彼女はたくさんの言語を話せるわけだから、言語の能力に長けているということにとくに疑問を挟む余地はない。ただ最近あらためて気づいたことはコミュニケーションということにおいて、言葉とは違う問題なんだなということだ。なんだか書いていてコミニュケーションという言葉が鼻に付いてきた。今の日本の文脈でよく使われる「コミニュケーション能力」という言葉、略して「コミュ力」なんて言葉に、なんとも言えないいらだちを感じるのはなんでだろうか。
相手を知ろうと言う欲求と、自分のことを伝えたいという欲求、テクニックなんかではなく、ただその欲求さえあればいいのだというごくごく単純なこと。言葉は一つの手段にすぎない。外国にいるとそんなことは当然のように感じることが出来る。いや、それはただ言葉の出来ない自分への言い訳のための論法であったか。まあ言い訳でもなんでも、笑われようがなんだろうが、伝えないことにはおなかをいっぱいにすることすら出来ないのだからしょうがない。インドでの1年はあの手この手で通じ合う努力をした1年間であった。愛想のない酒屋、どうしても聞き取れない変な英語の切符売り場のオッちゃん、ケツをたたかなくては働かないレストランの同僚達。もちろん妻となった彼女とだっておんなじことである。いまだってよくやってるなと思う。お互いの不完全な英語(あんたと一緒にするなと彼女は言うに違いないが)、初級クラスの僕のチベット語、そして彼女のカタコトニホンゴ。あとは熱意だけである。こうやって並べてみたら、なんかそんだけありゃ充分じゃないかという気もしてくるが、はっきり言ってギリギリである。でもどうにかなっている。
京都での会を企画してくれた古くからの友人は、久しぶりに僕に会ってずいぶん変わったと言った。昔に比べ、「開かれた」とその友人は言う。昔はそんなじゃなかったよと言う。その人は特別に自分を開きっぱなし垂れ流しというところがある人なので、自分と比べちゃいけないよという言葉も出かかったし、そんなこと簡単に認めるのも恥ずかしい気もするのだが、よく考えてみるともしかしたらその指摘は正しいのかもしれないなと思う。
もともと言葉で伝えることに大きな重きを置いて暮らしていたほうだと思うし、そのぶん自分の口から吐き出す言葉には何度も自分で検閲をかけていたほうである。なので言葉の瞬発力はまったくないのだけど、言葉の力を信じている、そういう部類の考え方をしていた。お互いに言葉を積み重ねることこそが理解し合う正しい道である、そういうこと。もっともその考えは大雑把にいうと今も変わらないと思うのだが。ただ振り返って、言葉の力を信じるあまり、その理解を相手にゆだねる部分も多かったのではないか、そんなことを考えた。言葉は自分を伝える媒介でしかないとしたら、媒介が間に入れば入るだけ、伝えるということにおいて考えると、誤差が出ることもあるということだ。自分の心をそのまま直接相手にぶん投げたほうが伝わるに決まってる。
僕はダラムサラの一年でぶん投げる人に成長したということなのだろうか。いや、やっぱりそんなこと簡単に認めたくない。難しいところだ。ただはっきり言えるのは街を歩きながら僕らが笑うと、けっこうな確率で誰かは振り返るということ。つられて僕の笑い声まででかくなったのは間違いなさそうだ。
これからチベット人の女の子と結婚するという人にもあった。日本人の女の人とチベット人男子と言う組み合わせはまあいるのだが、逆のパターンに会ったことはないというのはお互いにそうだったので、なかなか話し合うべきことがたくさんある出会いであった。彼はチベットにも長く行っていたようだし、チベット語も堪能なようで僕なんかと一緒にするべきではないのだけれど、それでも話し合うべきことはたくさんある。相手の子はチベット本土に住む遊牧民で、写真を見せてもらったが、いったいどこで見つけたのかと言いたくなるようなカワイコちゃんであった(実際声に出したかもしれないが)。今後は向こうで一緒に住むと言う。彼は彼女と知り合って自分もピュアになったような気がするというようなことを言っていた。うーん分かるような気がする、いやちょっと僕の場合は違うような気もする。ラサの子と遊牧民の子の違いか。ピュアと言えばピュアだけど、その言葉のイメージをこえたダイレクトな凶暴性を秘めているなんてことは妻の横じゃもちろん言わなかったけど。
とにかく僕らはぶん投げあってコミュニケーションをとっている。キャッチボールというよりドッチボールである。取ってもらうよりぶつけるのが先である。たまに突き指ぐらいはすることもある。でもたかが突き指である。そのうち指など太くなるし強くなる。そういう新しい相互理解の仕方を僕は楽しんでいる。けしてマゾヒスティックな喜びなんかではないと僕は思っているのだが。