2014/04/05

雪の国から魚の国へ

食器洗い用のスポンジが魚の形をしている。
「日本人はどこまで魚が好きなんだ!」
彼女は驚く。確かに言われてみればそのとおり。魚の形にする必要などまるでない。そう、我々は魚の国の人たちなのだ。
対してチベット人は魚を食べる習慣はない。肉は大好きだからベジタリアンと言うわけではないのだが、動物の命をとって食べるというとき、気にするのは命の数のようだ。ヤクや羊のような大きな動物は一頭つぶして何人ものおなかを膨らませることができる。それに比べて魚じゃそういうわけにはいかない。シラス丼とかイクラ丼なんてもってのほかである。どれだけの数の命を食べて腹を満たすのか。そう考えるようだ。もっとも魚を食べない理由はそれだけでもなく、水葬も多いチベットでは川に対する不浄感のようなものもあるようだし、単に食べたことがないから気持ち悪いという人も多い。日本に比べて食べるものの種類が圧倒的に少ない人たちだから、食べ物に保守的になるのは想像に難くない。

そんなチベット人である僕の奥さんであるが、彼女はとりあえずなんでも食べてみる。イカの丸ごと一夜干しの姿にびびりながらもとりあえず食べてみる。タコなんか絶対食べないと言っていたけど、目の前にあればとりあえず食べてみる。そのチャレンジ精神たるや恐れ入る。そういやイナゴも食べてたし。そうやっていろいろ食べてみた結果、刺身はかなり気に入ったようだ。ダラムサラにいる友達に生の魚おいしいよなんてことを話しているが、みんな一様に驚いてる。よくそんなもん食べれるなと。食べ物に対する柔軟性。これは初めての場所で暮らすのにもっとも大事なことだろう。彼女はどこでもやっていけそうなのでとりあえず一安心というところか。

日本に来て驚いたことはと訊ねると、一番に出てくるのが若い女のコの服だ。冬なのに生足出して、それでいて上着はモコモコ着込んでいて変だと言う。あの人達は寒くないのか、夏になったらどんな格好するのか、水着だけで歩き回るんじゃないだろうなと彼女は訝る。来たばかりの頃、二人で原宿、表参道辺りを散歩した。僕もほとんど縁のないところなので二人そろってまったくの異邦人である。いちいち通り過ぎる女のコたちの奇抜なファッションに「ほー」と声をあげる僕たち。いやどちらかと言うと彼女は眉をしかめる。ある洋服屋の前でマネキンだと思ってたピンクの髪の娘が急に歩き出して本気で驚く僕たち。ありゃたしかによそから来たらビックリする。
そして日本人の年齢が分からないと言う。若く見えて驚く。僕の祖母の年を聞いて驚く。会ってみてその元気さに驚く。そして結構年取った人たちも元気に働いていてまた驚く。居酒屋のパートのおばちゃんたちに驚く。チベットだったらあれぐらいの人たちはお寺にリンコルいって一日おしゃべりしてるだけだよという。どっちがいいことなのかよくわからないけど、日本はよそより長生きの国であることはたしかなことだ。
もう一つ、日本の生ビールの美味しさに驚いたと言う。インドで星の数程のビールを一緒に飲んだが、その度に日本のビールは美味しいよ、泡がたまらないんだよということをしつこく言ってきた僕にとってはうれしい言葉である。向こうでは泡がなるべく出ないように出ないようにとビールを注ぐのだが、瓶ビールだって美しい泡というのがあるのだよということを分かってもらえたようだ。

東京は桜の季節まっただ中。僕らはつまみと酒を持ってそれらしい場所へと向かう。
日本人にとって桜は春を告げるもっともエキサイティングな花であるということ、あのクレイジーなピンクと一気に散ってしまう儚さがあいまって、日本人は桜の下では正気を保つことは難しいのだということを説明する。お祭り関係には異常に熱心なチベタンスプリットの彼女にとって、桜の木の下の酔客たちを理解することは難しいことでも何でもない。説明するまでもなくすでに彼女の心は臨戦態勢である。
夜桜で乾杯。
酔ってしまえば文化の違いなんてまったくもって小さなこと。彼女がネクタイを頭に巻いてというような典型的な酔っぱらいのオッちゃんみたいになってもまったく驚かないなと思いながら、夜風に舞う桜の花びらをみんなで追っかけてみる。




2014/03/10

「3.10」

3月10日はチベット人にとってとても大切な日である。
55年前のこの日ダライラマ法王を中国から守るためにラサ、ノルブリンカに数万人のチベットが集まった。これが「1959年チベット蜂起」のきっかけである。中国軍はこの群衆に攻撃し、数週間で数万人が命を落とした。そしてダライラマ法王の一行はインドへと亡命した。
ロサが新年を祝う日であるのに対し、この日は政治的な意味合いでチベット人の鼻息が、一年で一番荒くなる日なのだ。もちろん連れの鼻息も荒くなっている。
3月10日は世界中のチベット人、チベットサポーターが街に出て「FREE TIBET!」と声をあげる。日本では3月9日の日曜日にデモが行われた。人の集まり易い日曜日にといった配慮だろう。僕と妻ももちろん出かけた。
日曜日の渋谷にチベットの国旗がはためく。集合場所の公園に集まったのはざっとみて50人くらいか。ちらほら見覚えのある顔もあるがチベット人はやや少なめ。彼女は明らかにそのことに対し不満そうである。チベット人を中心にみなでお祈りを捧げ、国歌を歌う。

そう言えば彼女はインドに亡命するまで、チベットの国旗も国歌も知らなかった。それどころか自分がチベット人であるということを知らなかった。知る機会がなかった。ネパールとの国境に近い町のホテルで働いているときにインドから帰ってきた一人のチベット人男性を助けたことがあるという。彼は山越えの途中で、おそらく国境警備隊に銃撃され足に怪我をしていた。彼をホテルに匿い手当をしていた彼女は、その男性から自分たちのこと、つまりは自分たちはチベット人であるということ、そしてインドに自分たちの大事なラマがいるということを初めて聞いたという。そして彼が隠し持っていたダライラマ法王の写真を受け取った。それがインドに行こうと思った最初のきっかけだ。

そんな彼女が今日はデモの先頭で横断幕を持って、国旗を持って歩こうとしている。何人かの人たちが大丈夫かと彼女に声をかける。先頭にいれば当然写真にも写る。なにがしかのメディアに出るかもしれない。ましてやマスクもサングラスも持ってない。チベットに家族が残る人は表に出るわけにはいかないだろう。そうじゃなくても今後チベットに行くときになにか問題になるかもしれない。でも彼女は言う。
「大丈夫、大丈夫。私にはなんにもない。」
手ぶら無鉄砲娘の面目躍如。
僕は後ろで内心ヒヤヒヤしていたが、まあ言い出したら聞かないので黙って見守ることにする。
そうしてデモはスタートする。

歩きながら、大きな声をあげながら、去年はダラムサラでたくさんの人たちと一緒に歩いていたんだなと思った。この先こういうチベットの行事のたびに一年前のダラムサラを思い出すんだろうな、そう思った。一年前、僕は気のいいノッポのクンガと歩いていた。器用なクンガはみんなの顔にチベット国旗をペイントし、自分は大きな背中に大きな国旗を背負っていた。その横で僕は意味の全く分からないチベット語のコールをなんとか繰り返していた。朝は今にも降り出しそうな空だったが、途中から日差しも強くなり、僕はたくさん汗をかいていた。拡声器に挟まれ、幼い尼さんたちと大きな声をあげていた。
そして今東京。街頭の人たちはぽかんとしている。買い物袋を抱えてぽかんとしている。日曜の渋谷にあらわれたどうしても拭えない異物感。ニューヨークはどうなんだろう。パリはどうなんだろう。もっと違うリアクションがあるのではないだろうか。日本ではあまりにも知られていない話なんだな、そう思わざるをえなかった。もっとも僕もダラムサラに行く前はどうだったと言われると似たようなものだったかもしれない。でも今はずいぶん違うことになっている。遠い話ではなくなってしまっている。思えばそれも妙な巡り合わせなんだけど。
一時間ほどかけて渋谷、表参道と周った。そういえば日本についてすぐに彼女を連れてこの辺を歩いた。今日道路から見た街はどんな風に見えたんだろうか。

デモが終わり、場所を変えて簡単な懇親会のようなものがあった。日本人と在日チベット人がお互いに交流しようという会。日本に来て15年という人がこんな話をしていた。「日本に来たばかりの頃、ちいさな町工場で働いていた。僕はどの人が社長か分からなかった。聞いてみたら横で作業しているおじいちゃんが社長だった。その人の指は機械にやられて全然なかった。社長なのに、おじいちゃんなのにこんなに働いていることが驚きだった。日本は実際は小さな国だけど、こういう人たちが日本を大きな国にしたんだと思った。チベット人はもっと頑張らないと。」
やはり日本で働くということは彼らにとって思ったよりハードなことなんだろう。ここはチベットでもなければネパールでもインドでもない。いいことか悪いことかはわからないが日本はよく働く国なのだ。
日曜日だというのに参加者にチベット人が少ないと、一人の先輩チベット人に妻は不満を漏らしていた。彼はこう言う。「あなたもしばらくここに住んだら分かる。そんな簡単な話じゃないんだよ。」
いろんな意味合いが含まれていそうなその言葉。


彼女のジャパニーズライフは始まったばかりだ。



2014/03/02

あたらしい年

今年3月2日はチベット歴の新年「ロサ」である。
チベット人はこの日の二日前から準備を始める。日本で言えば年越し蕎麦のような意味合いでトゥクパを作り、部屋の掃除をし、仏壇の飾り付けをする。飾り付けも簡単なものではない。いろんな形のカプセ(小麦粉、牛乳、バターなどで作る揚げ菓子のようなもの)を作り並べたて、ダライラマ法王の写真や仏教画の周りを飾り付ける。他にもツァンパやお祝い用のご飯、お菓子、ジュース、果物、カタなどなど用意しなければいけないものはたくさんある。「ロサ マレ、レサ レ」。チベット人は冗談でそう言うらしい。「『ロサ』じゃないよ、ほとんど仕事だよ」という意味。二日前に作るトゥクパの中にはおみくじのような紙を混ぜ込み、食べた人の新しい年を占うらしい。そうやって一生懸命準備をし、新しいきれいな服を用意し、新しい年を迎える。本来ならば新年は15日間お休みして祝い続けるという。15日間ってそんなに悠長に新年を祝ってるのはチベット人ぐらいなものだ。ただ最近はダラムサラでは、チベット本土で続く焼身自殺などの状況を考え、2008年以降自粛ムードにあったようだが、今年はチベット人の伝統を若い世代に引き継ぐために、騒ぎすぎない程度にということで、ロサ解禁のお達しがあったようだ。もっとも僕はいなかったのでいままでのことは知らないし、みんながホントに自粛できていたかどうかはクエスチョンマークである。ちなみに妻は数年前のロサに3人で10キロの肉を食べて3人そろっておなかを壊したと言っていた。

そんなロサを彼女は日本で迎えることになった。ダラムサラやカトマンズの友達から送られてくる大晦日の様子を見るまで、彼女は今日がその日だと言うことを忘れていたりするのだが、いざロサモードに切り替わると急にソワソワし始める、というより興奮し始める。チベット娘の心の中の爆竹はいつでも点火待ちなのだ。どんどん出てくる故郷ラサでの家族とのロサの思い出。ビール片手に、彼女は真夜中ずいぶん遅くまで僕に話してきかせてくれた。

そして3月2日。僕らは在日チベット人たちによるロサのパーティーに行った。
その日の東京は冷たい雨。しかしチベット人にとってこういう日の雨は祝福の雨。神様がお祝いの花を降らせてくれているのだ。ただそれが僕たち凡人には雨にしか見えないだけ、彼らはそう言う。思えばダラムサラでもダライラマ法王のティーチングのある日は決まって雨が降っていたような気がする。それもどしゃ降り。それでティーチングが終わる時間になるとすっかり上がっていたりした。祝福の雨、うん、なんか悪くない。
会場である川崎のお寺の小さなホールに到着する。受付ではきれいなチュパを身にまといしっかりメイクアップした若い子が僕らを案内してくれた。東京に来て一週間、初めてチベット人に会ったということになる。彼女も持ってきたチュパに着替える。会場に入っていく彼女の背中に向かって、負けんじゃねえぞニューカマーよ、つぶやいてみたりして。

亡命チベット人社会から日本にやってきているチベット人は100人程だという。アメリカ5000人、スイス3000人などの数字をみると圧倒的に日本は少ない。もっとも難民として認められていない日本にわざわざ来るメリットはチベット人にとってまったくといっていいほどない。少ないのも当然だ。チベット本土から留学生として中国パスポートで来てる人たちはもっといるようだが、その人たちと、亡命チベット人が出会う機会はほとんどないそうだ。日本にいたって中国大使館の目がどこにあるかはわからない。本土の人が亡命した人と接触するというのはそれぐらい危険なことなのだ。逆に言えばそれだけ中国政府が恐れているという言い方も出来るかもしれない。そう言えば前回日本に帰ってきたときに本土のチベット人映画監督の上映会に行ったが、彼はとてもとても慎重に言葉を選んで自分の映画について語っていた。日本にいると考えもつかない息苦しさが、隣の国には存在している。

いつの間にか彼女はチベット人の女の子たち(?)の輪に加わっていた。聞いてみるとみな日本語も出来るし、それぞれ仕事もしているようだ。彼女がほんの1週間前に日本に来たことを知ると、いろいろアドバイスをくれた。いわく日本語が出来ないうちはなかなか大変だよ、他の国とちょっと違うよ日本は。でも日本語がちょっとでも出来るようになるとけっこう心地よいよ。日本人みんないい人だし、とまで言っていたかどうかは記憶が定かではないが、みんな自分が苦労してきた分、新しい仲間に親身になってくれる。たまにみんなであつまって遊ぶからいっしょにおいでよ、カラオケでも行こうよ。まあカラオケのことを話してたかどうかも分からないけどそんな感じだ。同世代の女子が集まっている感じ。日本に来ても特に食べ物に関しても不自由なさそうだし、僕の家族たちとも楽しくやってけそうだったのであまり心配はしてなかったけど、やはり自分の国の言葉で気安く話し合えるというのは大事なことなのだ。さっそく電話番号の交換をしている。こうやってすこしづつ異国の中に自分の場所を作っていけたら、いつの間にか異国の風景も違って見えるんだろうなと、僕はやや他人事みたいに女子たちを遠巻きに眺めていた。


さてさてロサのパーティーである。始まりにみなでお祈りをしたりはしたが、基本的にはいつものチベット人の宴会スタイル。ご飯を食べ、酒を飲み、あとは歌って踊って、カードやサイコロなど気ままにダラダラと。チベットやインドのヒットソングが大きなスピーカーから流れる。自然にできる人の輪。僕にしきりに一緒に輪に入って踊ろうと彼女は言う。僕は断る。「行ってみんなといっしょに踊ってきなって」僕としては踊ったっていっこうに構わないのだが、踊ったら踊ったで踊りがかっこわるいとか文句を言われるのがオチなので踊らないことにする。「行ってきな、行ってきな」「えーちょっと1人じゃー」「いいからいいから」「いやでもー」そんなこといいながら彼女の体は勝手に動き出している。イッツオートマティック。ポンと背中を一押しするだけで、あっというまに輪の中に溶け込んでいく。あっというまに見えなくなってしまう。



2014/02/22

「アウトカントリー」というやつ

妻は、一月に子供と二人で夫の待つフランスへと旅立ったお姉さんとたまに連絡を取っている。
亡命してきた難民としてフランス政府に受け入れられているのでなかなか手厚いサポートがあるようだ。家が用意され、毎月の補助金があり、毎日食料の配布もある。野菜、果物、缶詰類、バケットなどを両手いっぱい抱えている写真を見ると、はっきりいってうらやましい。いつまでかはっきりとは分からなかったけど、しばらくは補助をうけられるようだ。
夫はすでにチャイニーズレストランで働いているし、お姉さんももうすぐ働き始めることが出来るらしい。何年か二人でガッツリ働く。学校に行く年齢になったら子供はチベットの親戚のところへ預け、向こうの学校に行かせる。十分稼いでチベットに戻り家族みんなで暮らそう、それが今の彼らのプランだ。
フランス語も英語もろくに話せない彼らの仕事がチャイニーズレストランになるのは妥当なところなんだろう。そしてやっぱりフランスに根を生やすという考えはないようだ。自分で選んで亡命してきたのだけれど、やっぱりチベットに帰りたい。亡命したときは彼らが何を求めて出てきたかは僕には分からない。いつ亡命してきたかによって向こうの様子がだいぶ違うので状況は人それぞれだ。
ただ言えるのはインドにいることに未来を感じることは出来ない、そういうことだ。
やはりお金の問題である。信仰だけではお金は降ってこない。神様はおなかまでは満たしてくれない。

ダラムサラでiPhone持って、Mac持ってという人はだいたい海外の親戚などから送金のある人だ。そんな人たちは仕事もしないでぶらぶらしてられる。朝から晩まで働いてる人たちは、そういう人がいない人。iPhoneなんて夢のまた夢。インドのサラリーなんて部屋代払って電気代払ってもうおしまい。妻がよくそんなことを言う。だからみんな外国に行きたがる。
みなスマートフォンで毎日通貨レートをチェックし、韓国ウォンが上がった下がった、シンガポールはどうだ、マレーシアはどうだと一喜一憂してる。どこの国に行って働くか、どこの国で働くのが割がいいか、そんなことを考えている。通貨レートだけじゃなくてその国の物価とかいろいろ他の要素もたくさんあるだろうにとも思うのだが、みな夢を見ている。

2000年頃まではお坊さんや尼さんは比較的容易に外国へ行けたらしい。チベットから亡命してくる人たちも多かったその頃、ヨーロッパを始め諸外国の支援が厚かったということだ。それでたくさんの人が外国へ行った。外国に行きたいがためにお寺に入った人もたくさんいたという。その後亡命政府の意向もあったのかインドから出国する審査というのが厳しくなったらしい。
政府、NGO、支援団体、個人のスポンサーなどの正式な招待のもとに外国にいくのが1つの方法。これは抽選や審査があったり、たくさんの枠があるわけではないので競争率はかなり高い。2つめが先に行った配偶者や親戚に呼び寄せてもらう方法。それもだめなら残っているのはイリーガルな方法。ブローカーのような人がいる。どうやってその国まで行くのかと思うが、いろんな方法があるんだろう。山を越えたり、海を渡ったり、偽造パスポートを使ったりというところか。目的の国の国境まで来てしまえば、パスポートなんかは全部捨てて、亡命してきました!と両手を上げる。ブローカーにはかなりの大金を払う必要がある。インド、チベット、海外の友人親戚からかき集めてようやくお金を作る。向こうについて働き始めればお金は返すことが出来る。ただ成功するかどうかは運次第。実際以前レストランで一緒に働いていた友人はヨーロッパを目指したが、途中イラクかどこかで捕まり、強制送還となった。道中自分が今どこにいるかよくわかってなかったという彼は、数ヶ月後にすっかりやつれ、髪もひげももじゃもじゃになって帰ってきたという。
彼はその後もオーストラリアの抽選に応募し続けているが、いっこうに受からない。彼の隣に住んでいる人が受かった。隣人はもうすぐオーストラリア、友人はまだダラムサラ。
もう一人別の友人も、いろんなところにいろんな方法で外国に行くためにトライしているが、いっこうに書類が通らない。この間会ったとき、もう疲れたとこぼしていた。インドに来て10年、先の見えない不安。こんなことならチベットに戻ろうかな、チベットに戻ってレストランを開こう。彼はそう言う。故郷に戻って家族の近くで暮らし、ツァンパを食べてた方がよっぽど幸せなんじゃないか。最近お母さんからしょっちゅう電話が来るんだ、ご飯ちゃんと食べてるか、ブランケットは暖かいのがあるかって。いつもおんなじことを言うお母さん。もう年取ったお母さんに心配かけさせてるのもよくないよな。小さな口をさらにつぼめて、彼はそうこぼす。

実際チベットに戻る人も多い。政治的なことに口を閉じてさえいれば、仏教のことは心の中にしまってさえいればいいんだ、そうすれば今よりは楽な暮らしが出来る、彼らはそう言う。それじゃあ経済的な幸せが人々の幸せだと信じて疑わない中国政府の思うつぼなんじゃないのか、と僕は思う。町中に武装した警官が立って監視されていたって暮らしがよければ我慢できる?ダライラマ法王の写真の代わりに毛沢東の写真を飾れと言われて我慢できる?と僕は思う。だけれど僕に口を挟む資格は全くない。いっこうに状況の変わらないチベット問題にいらだつ彼らの気持ちを、僕は完璧には共有することは残念ながら出来ない。

それぞれの逡巡と決断。

ところで僕たちは日本で暮らすことにした。
外国人にとって、きっととっても暮らしにくいであろう日本で暮らすことにした。この先どうなるか、自分と彼女の分ニ倍よくわからないことになっている。
日本政府はチベットという国の存在を認めていないので、彼女は無国籍ということになる。
無国籍と宿無し職無し。ないないづくしの僕たちである。

はてさてこの先どうなることやら。乞うご期待。いや危なっかしくてしょうがないな、実際。




2014/02/12

アジャ(お姉さん)

なんだか文章を書いててわかりづらくなりそうなので、はっきり言ってしまうが、今一緒に旅行してるチベット娘は妻である。いつの間にか結婚してしまった。あまりあとさきを考えないのが僕の数少ないいいところなのだ。
まあ、そんなことはこっちに置いといて、と。

ここカトマンズ、スワヤナンブーで彼女は新しいお姉さんを見つけたようだ。
彼女の名前はデヤン。いくつか妻より年上の彼女は、隣の部屋に住んでいる。朝っぱらから例の「ディディディディディ…」を唱えてたのは彼女である。聞くとノルウェー人のボーイフレンドがいるらしく、毎日スカイプでノルウェー語のマンツーマンレッスンを受けているらしい。なるほどそういうわけで「ディディディディ…」ということか。
挨拶ぐらいはお互いにしていたけどそれぐらいという感じだったが、ある晩「彼女の部屋に遊びに行くけど一緒にいく?」と妻が僕に聞く。女同士の語らいの時間を邪魔するほど僕は野暮ではない。一人でのんびり酒を飲みながら、部屋で映画を見ることにする。
数時間後興奮した様子で部屋に帰ってきた。「新しいお姉さんを見つけたよ。姉妹の契りを交わしてきた!」人懐っこいことは人懐っこいのだが、じつはかなり人見知りで、なかなか人と腹を割って話すことが少ない彼女にしてはずいぶん珍しいことだ。明日のお昼は3人で一緒にご飯を食べる約束をしてきたという。「ほんとに考えてることが一緒なんだ。初めてだよこんなこと」実のお姉さんにも話さないような個人的な胸の内をぶちまけることが出来たようだ。いつまでも興奮したまんまの彼女は、その夜なかなか眠られなかったという。僕はさっさと眠ってしまったわけだが。

翌日デヤンの部屋に行く。彼女はもうすぐ休暇でネパールに来るボーイフレンドのために大きな部屋を借りている。キッチンもある。正面にカタを掛けた法王の写真。大きなテレビ。大きなスピーカー。テレビのしたの布をめくってみるとノルウェー語のノートがある。壁には神様を描いたいくつかのタンカ(仏教画)。毎日お供えする神様への水入れが7つ。その脇にチベットのお香。そしてその脇に並ぶ彼女の化粧道具。普通のチベットの女のコの部屋という感じだろうか。
2人が子供のときに聞いていたという、ちょっと昔の中国のラブソングをかけながら、デヤンはビールを3つのグラスに注ぐ。「彼氏と喧嘩したときなんかは決まってこの曲聞いて泣くんだよ」「そうそうあたしも一緒」「それで一人でバーに行ってビール飲んで」「そうそう!」なんだか黙っていると僕のいる場所がなくなりそうな気配なので、なんとなくネパールに来た経緯を訊いてみた。

デヤンは八歳ぐらいの頃、一人で生まれ故郷のラサから遠く離れたネパール国境に近い町に働きに出た。金銭的な事情か母親の知人のところに預けられたということだ。そしてその知人という人にずいぶんひどい扱いを受けていたという。満足な寝床も食事も与えてもらえず、殴られ、こき使われた。母親がどこにいるかも教えてもらえなかったと言う。僕の妻も小さい頃に親を亡くし、一人で街に出て働いていた。二人は僕の手の届かないところで深く共感し合っている。

「こんなことなら死んだ方がましだって思った。グラスを割って手首を切ったこともあった。死ねなかったけどね。」デヤンは手首の大きな傷を恥ずかしそうに僕に見せてくれた。
「私は毎晩神様にお祈りしていた。生まれ変わるとしたらチベット人だけには絶対なりたくないって。私が信じているのは法王様だけ。チベット人なんか大嫌い。近所に国境を行き来するためのネパール人ドライバーのための売春宿があったの。そこの女の子の一人と友達だったんだ。どこに行くとも告げられず売られてきて、男を取らされて、口答えしたら殴られて、お金だってみんなオーナーにもってかれて。どこにも逃げ場なんかない。オーナーだってもちろんチベット人だよ。チベット人は口を開けば「ニンジェ(慈悲)、ニンジェ」って言ってるけどさ、ニンジェなんてどこにあるっていうの?笑っちゃうよ。貧乏人から搾り取って、弱い女の子から搾り取って、信心深い顔してお寺やお坊さんにはポーンと寄進する。それがきれいなお金って言えると思う?いいことしてるって言えるの?ラサでリンコルしてるおじいさんおばあさんたち、あの人たちなんか毎朝オンマニペメフン、オンマニペメフン言いながらまっすぐ肉屋に行って肉を買う。集まって誰かの噂話して、よけいなお節介ばかりして、その合間のオンマニペメフンだよ。あのひとたちにとって暇つぶしだよただの。」
結局デヤンは17、8歳頃働いてた家を逃げ出し、ネパール、インドへと亡命したと言う。1年ほどインドで学校に通ったが、チベットに戻り母親を捜しに行った。しかし見つけることができずに、再びネパールへ。未だにお母さんが生きてるかどうかもわからない。
「カトマンズに戻ってきたときはホントに一文無しだったの。それで仕事を探そうとチベット人のレストラン何件も回ったけど、みんな私の汚いなりをみてあっち行けって。で、最後に中国人のレストランのオーナーにすぐうちに来いって言われて、ご飯食べさせてもらって服だって用意してくれて、そこで働かせてもらうことになったの。中国政府はとんでもなくわるいやつらだけど、普通の人はいい人いっぱいいるよ。チベット人よりもね。」
今は中国人ツーリストの通訳やトレッキングのガイドなんかの仕事もしているらしい。

「ホントに死のうと思ったことも何度もあるけど、私たちはギブアップしなかった。だから今はフリーダム。こうしてビールを飲んでられる。」
2人は再びグラスを重ね合わせる。
タバコの箱を開けると、ちょうど最後の三本。3はチベット人には吉兆の印。

僕たち三人は顔を見合わせ、お互いにそれぞれのタバコに火をつける。


2014/02/10

朝のリレー

スワヤナンブーの朝は早い。
まだ夜も開けていない4時きっかりに始まる拡声器によるオッサンの演説。近くで何やら集まりが行われているようなのだが、どこなのか、何の集まりなのかはさっぱりわからない。何を話しているかは当然わからない。毎朝のことながら理不尽に中断される穏やかな僕の眠り。そしてほどなく始まるオッサンの高笑い。それに続く大勢の高笑い。朝から知らないオッサンの高笑いを拡声器で聞かされるのはあまりいい気分ではない。いやそれどころかとても癪に障る。繰り返される高笑い。
これはもしや、どこかで耳にしたことなある「笑いヨガ」というやつではなかろうか。不意にそう思う。実際に目にしたこともないし、ヨガのことだってよく知らないのだが、朝っぱらから大勢集まって高笑いするなんてトンチキな話ほかに聞いたことはない。ただどうしてもヨガにあるべき(勝手なイメージだが)清らかさというかすがすがしさみたいなのが全く感じられない。お前はまだベッドの中だろう、ゆうべの酒が残ってアタマががんがんしてるんだろう、そんなヤツが何を言うと言われればそれまでだが、どうもしっくり来ない。これが「笑いヨガ」なのか。ベッドの中でオッサンの高笑いを聞きながらあれこれ想像する。両足を首にかけたり、片足立ちでまっすぐ腕を上げたりしながら高笑いしてるのだろうか。昔見たヒクソン・グレイシーみたいにおなかをビックリするほど引っ込ませたりふくらませたりしながら高笑うのだろうか。暗闇に集まって高笑うのはどんな気持ちなんだろうか。家族に内緒で来てる人はいないだろうか。帰ったら朝ご飯はなに食べるんだろう。間違いなくおいしいだろうよ。
だんだんオッサンの高笑いも耳に馴染み、心地よく聞こえはじめる。再び僕は穏やかな眠りに向かう。

「オム・ア・ラ・バン・ザ・ナ・ディディディディディディ…」
僕は再びこっちに戻される。左隣の部屋の娘が廊下を行ったり来たりしながら大きな声で真言を唱えている。朝の身支度に忙しそうだ。リンコルに行くのだろうか。そろそろ薄く朝日がさしはじめている。ちなみにこの真言は言葉がうまく話せるようにという智慧の神様の真言らしい。吃音の人なんかにディディディ…のところがいいトレーニングということか。まだベッドの中、半分しか覚醒してないアタマで僕も真似をしてみる。「ディディディディ…」
もう一人おじさんも「オン・マニ・ペ・メ・フン」を低く唱えながら廊下を行く。低くぶつぶつつぶやかれるのもなかなか眠りを妨害するもんだ。
1階の中庭のテーブルに人が集まりだしてきた。ようやく雀の鳴き声も聞こえはじめた。宿の前で石やら数珠やらチベットのものを扱う露店のオッちゃんの声がとりわけ響き渡る。薄汚れた白い小さな犬をいつも従えているこのオッちゃんは、僕の思う「ザ・チベット人」である。顔馴染みのおばさんをつかまえてはおしゃべりに興じ、冗談を言ってからかい、腹の底から笑い飛ばす。どこか芝居がかったオッちゃんの話しっぷりからチベットのにおいがムンムンする。大地の土煙が見えてくる。
表通りをリンコルする人たちの話し声が少しづつ多くなる。車のエンジン音も聞こえ、クラクションも鳴り始める。
すっかり朝である。1階のキッチンからカランカランと食器の音が聞こえる。そしてステレオのスイッチが入り、チベット人歌手の流行歌が流れる。大音量で。さっそく右隣の部屋の兄ちゃんたちが音楽に合わせて歌い始める。その向こうの部屋からも歌声がきこえる。ご機嫌の朝の合唱部。
ようやく午前7時。僕はベッドからもそもそと這い出る。バター茶でも飲みに下に降りることにしようか。まったく、朝の弱いチベット人というのはいないもんか。彼女の方を振り返ってみると、まだまだ遠い夢の国にいるようではあるが。


今日も朝から猿たちのキーキーという鳴き声が聞こえる。どこかからかっぱらったチベタンブレッドを奪い合っている。それにしてもここの野良犬たちはどうしてこうも猿に寛大であるのだろうか。



2014/02/02

死と向き合う

DR.MOBILE」という看板を掲げた店がある。携帯電話やパソコンの修理屋だろうと思って中に入る。入ってみると、思いがけずそこはとんかつ屋で、またそのとんかつが思いがけずにうまいのなんのって。
夢の話だ。じつにくだらない夢だ。この夢に自分の心の奥底のひだのようなものを見いだせる気配がまるでない。考えられるのはうまいとんかつを渇望してるのだろうということくらいか。それはたしかにそのとおりであるから、またくだらない。

翻ってチベット人の彼女のみる夢の話には、いつも死者の影がある。眠るということは一時的に向こうの世界に身をゆだねるということだ。しばしば彼女は夢の中で大好きだったお母さんやお兄さんの姿を感じる。夢の中で死者に会う。しかしそれは喜ばしい再会ではない。危険な兆候だ。彼らの死が正しく執り行われていないということになる。正しく次の生へたどり着いてないということになる。そして彼女を向こうへ連れて行こうとしている。いやもしかしたら、彼女が自分でも気づかないうちに彼らを引き止めているのかもしれない。
「もし眠っているときわたしがどこかに行きそうになったら引っぱりもどしてほしい」
常々彼女はそんなことを僕に言う。けっして比喩的な話ではないようだ。実際子供の頃、突然目を覚まし、周りの大人が何人もかかって押さえつけてもどうにもならないような信じられない力で外に飛び出しそうになったことがあると言う。その夜彼女は彼女ではなかった。死者が彼女の体にやってきたということだ。そんなときはお坊さんを何人も呼んでお祈りをしてもらう。心置きなく死者に向こうにいってもらえるように。こういう話はチベットにはたくさんあるよと彼女は言う。

死者を正しく死に導く。もしくは死にゆく本人も正しく死へ向かう。輪廻転生という次の生への疑いのない肉体的な感覚というのか。いくらアタマで理解しているつもりでも僕には理解しきれないのだろう。正しく生きてさえいれば死は恐れるものではない。ただの途中経過である。ときおり見せる彼女の無鉄砲にも思える言動も、「死んだら死ぬだけ」的な言い分も、その考えにしたがえば納得できる。いい意味でも悪い意味でも一つの生の価値が僕が考えているものとは違う。命の重さ軽さなどという話ではない。生も死も個人に属する問題ではなく、もっと大きなスケールのもとで語られるべき事柄なのである。チベット本土で自ら炎に身を捧げ、死を持って抗議を行う人たち。彼らの想いもそう思うとより具体的に感じられるような気がする。

チベットで一度見たという鳥葬の話を聞いた。遠巻きに一度見ただけというが、その描写は生々しかった。
小高い丘の上の鳥葬場に、鳥葬師というのか専門の職人がいる。この職業の人のことをトンデンというらしい。なにか特別な服装でもしているかとも思ったがまったく普通の格好であると言う。ちなみに死体を運ぶ彼らの車は交通ルールの外にあるらしい。警察でも止めることは出来ない。
空中ではハゲタカが弧を描き、すでに待機している。
トンデンは死体を大きなナイフで切り分ける。魂(この言葉が適切かどうかはよくわからないが)がすでに離れた死体は、ただの肉の塊である。適当な大きさに切り分けたところで、その傍らに彼は座りツァンパを食べ、チャンを飲む。手は血まみれじゃないのと僕は聞いたが、彼女はそこまでは見えなかったと言う。これは死者の最後の食事として家族が用意するそうだ。肉料理だってある。
食事が終わるとトンデンはツァンパを宙にまく。ハゲタカの出番である。はじめにボスの名前を呼ぶらしい。ボスが一羽舞い降り肉塊をついばむ。ボスが食べ終わると、残りのハゲタカたちが降りてくる。最後にきれいに残された骨をトンデンは細かく砕き、燃やす。そしてその灰を高く宙にまく。そのとき強い風が舞ったような気がすると彼女は言った。


いろんな死のかたちがあるし、いろんな死への想いがある。
実は数日前に祖父が亡くなった。実家からメールで知らされた。家族もみなある程度の覚悟も出来ていたろうし、まあ全うしたといえるのであろう。それでも、こんなところにいて駆けつけることの出来ないジジイ不幸な孫を許してくださいと思う。もう一回会える気がしてたのになと思う。最後まで家長として威厳を保っていた祖父が、正しく勇敢に次のステージへと向かって行ったことを今は祈るばかりである。
そんなことなので親族が集まっている実家とスカイプで連絡を取ってみた。さんざん泣いたり笑ったりしたあとなのだろう、ただの酔っぱらいばかりになっているパソコンの向こうの光景に、彼女はやや、いやかなり面食らった様子であった。


いろんな死のかたちがあるし、いろんな死への想いがある。